■セブンアイ
 
「一瞬の一声」


 大阪国際女子マラソン(25日)中盤で渋井陽子(三井住友海上)ら、大集団を形成した何人かのランナーの笑顔を見たとき、誰もがそれを「不敵な笑み」だとか「余裕の笑顔」だと思った。
 しかし実際は全く違ったようだ。
「頑張れ」「諦めるな」「行け」
 100メートルを25秒前後で駆け抜けていくランナーたちによれば、これが、「沿道3大声援」らしい。大阪では「3大応援」に混じって、突然、中年男性の太い声が飛んだ。
「風邪ひくなよ!」
 五輪出場権をかけた緊迫したレースで、渋井たちが笑った理由はこれだった。

 みんな吹き出してましたよ、あんな声援初めて、「歯を磨けよ!」とも言われるかと思った、などなど、選手から笑い話を聞きながら、全員がその声を漏らさず聞いていたことがおもしろかった。応援する側にとってはほんの「一瞬の一声」でも、ランナーは実に冷静に沿道を観察し、耳を澄まし、時に笑い、時にはレースを分ける程の勇気をもらう。トップランナーでも市民ランナーでも。

 優勝を果たした坂本直子(天満屋)の取材を終えゴールを見ると、史上最低気温の3度となったレースを完走した女性市民ランナーたちが勇敢に帰って来る。泣きながら、寒さに震えていた30代の主婦に「大丈夫ですか」と声をかけ、話をした。マラソンを始めて3年が経つ。この日初めて、国際陸連公認のマラソンに出場したという。

「子どもが手を離れ、夫も仕事が忙しい。日々の目標が何だか持てなくて、走り始めたら楽しくて。記録もそれなりに伸びますしね」
 飲み物を口にし、少し落ち着く。
 毎朝、中学生を送り出して買い物までの間に練習をする。今年も家族で正月を祝ったが、夫は、彼女自身が、以前よりも生き生きできる理由だから、と打ち込むマラソンにはあまり興味を示してくれない。レースの日も、子どもはスペシャルドリンクのボトルに「お母さん、ゴールに帰ってきてね」と書いてくれたが、夫からの連絡はないままスタートラインに立った。しかし、苦しくなった30キロ過ぎ、大きな声がたった一度聞こえた。

「私の名前を叫ぶ主人の声でした。黙って、赴任先から沿道に来てくれていたんです。声援はそれだけでしたが、勇気が湧いて」
 彼女はそう言い、笑顔でまた泣き出した。
 一声は、力強くて、優しくて。

(東京中日スポーツ・2004.1.30より再録)

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