■セブンアイ
 
彼女を忘れない


 規則正しい音でプリントアウトされていくファックスを、祈りながら目で追った。
「登録3196号 木村厚子選手(埼玉)の死亡事故について」
 それ以上、読むことはできなかった。
 日本の、海外の、どれほど多くのトップ選手や、華やかな国際大会を取材したとしても、私が彼女を忘れることはない。スポーツ新聞に入社した年、初めてインタビュー取材をしたのが、彼女だった。レース部所属ではなかった自分が、なぜ、本栖の研修所まで先輩記者に連れられ1時間ものインタビューをさせてもらったのか定かではない。けれども、私よりも4つ歳下だった彼女に聞いた話は今も鮮明に覚えいる。
 英語が得恵で、国際電話の交換士か通訳になりたいと思っていた。平凡な学生を目指し、ささやかな夢を実現できればいいと願った予備校からの帰宅途中、偶然見つけた「競艇選手募集」のポスターに釘付けになった。
「おもしろそうだな、と。私は何かに挑戦してみたかったんです。平凡じゃない何かに」
 ご両親には猛反対されたと聞いたと思う。85年、彼女は「美人レーサー」の看板を背負ってデビューをし、以後も競艇界の華として、競艇選手と結婚し、子育てをし、2026戦で254回1着を獲得している。
 彼女と同じ年に新人となり、彼女の初レースの月に運動部に配属され、初めて優勝戦に出場した年、私も初めての五輪取材でソウルに派遣された。彼女が男女混合レースで見事に初優勝を果たした年に、女姓で初めての巨人担当に配属された。私はいつでも、スポーツ新聞の競艇欄に掲載される彼女の記事を読みながら、自分の環境を符合させ、共感し、大いに励まされていたのだと思う。
 娘さんを思い、今年で引退する覚悟だったと関係者に聞いた。「平凡」を置き去りにしようと時速80キロもの水面を加速し、ようやく人生を減速しようとした時に、こんな悲しい事故が起きる。しかし、たった1 枚のポスターで人生を決断した木村厚子が、私にとって最初の取材相手だった幸運は、今も、これからも決して色褪せることはない。
 お互い頑張ってまた会いましょう──そう願って別れて17年目の同じ5月、冥福を祈って。

(東京中日スポーツ・2003.5.30より再録)

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