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静かなる登頂


 自分の体よりも大きい、スチール製の机を頭に帯せて、子供たちがはしゃぎ回っている。日本の文具メーカーが寄付してくれた水色の1人用の机は、彼らが生まれて初めて見るピカピカの新品だ。これまで使っていた食堂の大テーブルのような机は歪んでいたし、座ろうにも椅子はなかった。

 4月20日、ネパールの首都カトマンズから北西へ、ヘリコプラターでさらに3時間、標高1,590メートルのフィリムという貧しい村に、石作りの新しい小学校が開校した。竹中工務店がボランティアで建築したこの「ネパール・スクール・プロジェクト」の完成式に、学校に潤沢な育英基金を寄付した松浦輝夫(68歳、大阪在住)が同行していた。1970年5月11日、日本山岳会が南東稜から初めてエベレストの頂上を制覇した日、植村直己とともに真っ赤なザイルをつないで登頂を果たしたその人である。

 ニュージーランドの養蜂家・ヒラリー(英国隊)と、強靭なシェルパ族のノルゲイ・テンジンが、世界最高のエベレスト(チベット語でチョモランマ)を制覇してからちょうど50年目の今年(1953年5月29日)、松浦は、それらの記念イペントに沸くカトマンズの北東倒と反対側の忘れられた地で、2度目の夢をひっそりとかなえていた。

「植村君とつないだ真っ赤なザイルは、2人に通う血管のようだと心強く思いました。あのとき私たちが日本人として初登頂できたのは多くの方々の力があったから。33年間ずっと恩返しをしたかった」

 ネパールから帰国した翌々日、大阪で話を聞かせてもらった。エベレスト日本人初登頂以来、講演や、独学で始めた焼き物を分けるなどして得た収入を、ネパールへの恩返しに当てたいと貯金を続けた。数百万円もの全額が、小学校の育英資金となり、子供たちの食資や教材などに長く使われて行くことになる。

「ようやく肩の荷が、ほんの少し降りた気がしまそ。ようやく」

 33年目に果たされた、もうひとつの「静かなる登頂」が紙面を飾ることはなかった。しかし、松浦はあのときと同じようにヒーローなのだ。少しも色あせることがない。

(東京中日スポーツ・2003.5.2より再録)

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