■セブンアイ
 
父娘鷹


 嘆きの壁でも、呟きの壁でもなく、何の壁といえばいいのだろうか。
 浅草・雷門から近い浜口道場に、アテネ五輪で金メダルの筆頭候補とされる世界選手権女王、72キロ級・浜口京子(ジャパンビバレッジ)を訪ねた日、道場の壁に太いマジックで書き込まれた文字に圧倒された。京子の父で師匠の、元レスラー・アニマル浜口氏が2年前から、つまりアテネ五輪の正式種目に決定する頃から、少しずつ書き始めたもので、今では京子も書くようになったという。
 己に勝て、孤立に勝て、屈辱に勝て、困難に勝て、限界に勝て、修行に勝て、怪我に勝て、重圧に勝て、失敗に勝て、挫折に勝て……「何かに勝て」と書かれた文だけでおそらく三百以上、壁から梁(はり)にかけて余白はもうどこにもない。しかし「相手に勝て」が見つからない。目前の敵を倒すという時に、自分に勝っている場合ではないだろうと格闘技を取材するといつも思う。

 浜口氏は、豪快に笑いながら話を続けた。
「弱い自分をまずは倒さないと、相手と戦う資格がない。そのための厳しい練習や挫折を乗り越えた時に、魂の底から叫ぶ言葉を、それをこうやって書き留めてきたんです」

 アテネ五輪に向けて、アマチュアスポーツ界が静かな地殻変動を始めている。発祥の地で新種目となった女子レスリングにおいて、大きな期待を背負う父娘は、昨年の世界選手権で王座を奪回するまでの壮絶な戦いを乗り越え落ち着き払っていた。

「親子願」と呼ばれる父と息子の厳格より、父と娘の方がより厳しいのではないだろうか。しかも格闘技である。本当は日の中に入れても痛くはないほど可愛い娘が脳震盪で倒れれば、「甘えるな、たるんでる!」と叱咤する。マットを下りれば、金メダルを手にすればすべては平穏になるはずだが、テテネまでは「京子も私も命がけで」と師は覚悟し、弟子は「私の中には父の闘魂がついているから」く優しく笑った。

 競技を介在しなければ2人は無口だという。壁は、夢を実現しようとする互いの心を伝え合い、確認する、文字通り世界一短い手紙の交換のように思う。夢がかなった瞬間、平吾と京子はどうするだろうと、目を閉じた。

(東京中日スポーツ・2003.4.25より再録)

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