■セブンアイ
 
佐藤進さんの笑顔


 いつだったかディテールが思い出せないが、会話は覚えている。
「ずいぶんとやりあったけれど、楽しかった」
 元ダイエーで、マラソンの中山竹痛氏(現・大産大監督)を指導した佐藤 進監督(スズキ)が、奄美大島か鹿児島だったか、合宿先の空港ロビーで喫茶に誘ってくれた。
「私が、あなたのような人とは、もう口はきかない、と言うと、あなた、何と言ったか覚えている?」
「結構です、と言いましたか」
「そうそう。とんでもない記者だなあと呆れてしまったよ。女のくせにって」
 コーヒーをおかわりしながら、監督と飛行機の出発まで大笑いしたことは鮮明に覚えている。
 15日、現在はスズキの監督だったその佐藤氏が亡くなった。まだ53歳である。

 中山、瀬古利彦、新宅永灯至各氏が代表となった88年ソウル五輪前後数年は、男子マラソン界にとどまらず、日本のスポーツ界も特別な輝きを放っていた時代である。
 世界最高レベルで争われるマラソンと同時に彼らの個性はファンを、記者を魅了した。中でも中山は強い自己主張をランニングにぶつけ、佐藤氏とのタッグは最強だった。
 ダイエーの方針もあったが、取材は最小限、コメントもあまりしない。当時はスポーツ新聞社で陸上を担当しており、何かあれば扱いは当然センセーショナルになる。佐藤氏は、競技場で私の顔を見ると記事を追求しては「まだ決まってないのに」「ああいうニュアンスではない」と怒る。私も譲らないことはあった。しかし、現場でああした言い争いをするからこそ、互いの距離が縮まることを、監督は教えてくれた。

 ソウルの選考会だった87年福岡、瀬古が欠場した氷雨のレースで、中山は途中まで世界最高ペースで独走。佐藤氏がコートも手袋もせず、ゴールで待っていた姿を思い出す。告別式では中山が、温かな弔辞を読んだという。
 空港で別れるとき、私の原稿を楽しみにしていると励まされた。大切なことを教えられたが、お礼を言えなかった。せめて、最後に見た、あの穏やかな笑顔を胸に刻んで。

(東京中日スポーツ・2003.1.24より再録)

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