■セブンアイ
 
井原、北澤、山口


 中山雅史(磐田)は、小学5年の文集に僕の夢、という欄を見つけ笑ったと言う。
「プロサッカー選手とあったのですが、当時日本にプロはいません。ですから、この夢は大きくなったらウルトラマンになる、とか仮面ライダー目指します、というのと同じレベルの空想です」
 井原正巳(浦和)にはこう聞いた。日本代表出場試合は、歴代1位の123。
「最高峰は日本リーグの選手で、それを目指すことや、ましてや日本代表なんて考えたことさえありません。田舎の分校で体育の先生になり、W杯を子供達と見たでしょうね」
 しかし、実際のところ、ウルトラマンとサッカー選手を並列させた少年は、Jリーグ初の年間完全制覇の原動力となり、分校で子供とW杯を見るはずだった青年は、自らが主将となり初のW杯に出場した。

 すでに井原は浦和から戦力外通告を受け、97年の予選で瀕死の日本を蘇らせた北澤 豪は生え抜きのX東京からの退団話が浮上し、横浜フリューゲルス時代、クラブ消滅を経験した山口素弘も、若返りを理由に名古屋から戦力外通告を受けた。30代半ばの彼らには、小野伸二(フェイエノールト)や稲本潤一(フルハム)らのような「世界」はあり得なかった。海外がようやく現実的に捉えられた時、今度は時代が彼らを追い抜いていた。

 頼りは、自分の力を出し切ること、遠くにかすむ希望とサッカーへの深い愛情。あまりにも不器用な手段だった。プロへの厳しさを体現して来た選手たちに、実力の世界の掟を無視して、安直な同情を寄せるのは失礼である。しかし選手のプロ化に比べて、フロント、プロを取り巻くハード面での進歩はあまりにも遅い。本当に衰えたなら話は別であるが。ピッチで見たいのは黄金の才能ばかりではない。いぶし銀も鋼も見ていたい。スポーツがもし若いフィジカルだけで成立するのなら、魅力など半減する。W杯が自国で行われ16強に入った年、一人も信じようとしなかったその夢を現実にした彼らは、一体何を恨んで寒空の下を戦うのであろう。クラブか、運か、それとも時代か。
 今週、Jリーグ最終節。

(東京中日スポーツ・2002.11.29より再録)

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