■セブンアイ
 
「弘山を支える夫」


「すみませんけど、これをミネラルウォーターできれいに洗ってからキャップを付け直してもらえませんか」
 女子マラソンの弘山晴美(資生堂)が釜山アジア大会を目指しての30キロ距離走を行った日、私は夫でコーチの勉氏とともに、まさに「猫の手」として彼女の給水を手伝っていた。彼に言われ、とにかく急いでスペシャルドリンクのボトルキャップを水で洗う。30キロ、40キロのマラソン練習は修羅場である。速いペースで、しかしライバルも声援もないコースを一人で走り続ける。夏に帯状疱疹を患った弘山は、30キロ走の10キロ地点で、すでに「もうダメ」と叫んでいた。年齢から言っても一番苦しい時期だろう。あの日、走る姿を見るのは辛かった。

 1キロ4分を切る凄まじい速さの中で、質問している余裕はない。あとで聞こうと思っていた。ほんの小さなキャップだが、水を調合する際、下に落としたという。下といっても、泥の上でも砂の上でもない。私なら、急ぐあまりそのまま付けるに違いないし、せいぜい衣服でこすって終わり。第一、走っている彼女は知らないのだ。
「なぜ洗ってくれと。雑菌が万が一、晴美ちゃんの口に入ったら、ということなの」
 勉氏とも長い付き合いになった。
「まあそこまで心配しなくても、練習中にちょっとしたことでもいい加減なことをやるのは嫌ですよね。誰も見ていないからこそ余計に。彼女は走っているわけですから」

 相手は、女子長距離をリードするランナーであり妻である。もし、彼が、私のようにキャップの汚れを衣服で拭くズボラな人間なら、彼女は34歳まで走っていただろうか。
 病み上がりの釜山で銀メダルを獲得した翌日、今度ばかりはおそらく真剣に引退を考えていた彼女は、シドニー五輪での柔道・田村亮子の言葉を真似して笑った。
「最低でも(アテネ五輪選考レースまで)1年。最高でも2年。走ります」

 キャップのことは知らないだろう。しかし彼のような男性に支えられる女性が、一度決めた目標をあきらめるはずがない。たとえどんなに苦しくても。

(東京中日スポーツ・2002.10.18より再録)

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