■セブンアイ
 
「自然の神」


 受験生のような夜を過ごしている。
 もっとも二十数年前と学力は一向に変わらず、5行進めば良い方で、2行ほどでわからぬ英単語にストップしてはウンウンと唸っている。あのころと違うのは、頼りにするのが分厚い辞書ではなく、ボタンでかなりスピーディーに操る電子辞書だということくらいだ。

 史上初めてエベレストに登頂したシェルパ族のテンジン氏の息子、ノルゲイ氏が数年前、登頂に成功したあとに記した自伝の翻訳をしている。登山用語が専門的なことに加え、宗教に帰依する深層心理を理解することは困難である。作者が、チベットの人々の心に深く生きる神と、史上初の登頂をした父の教えを、標高が上がるごとに強く感じる内面的な描写をすることは、英単語の問題ではないからさらに難しい。

 高地に住む彼らが、高山病などへの順応力を有しているとはいえ不思議なのは、登山という過酷で、肉体の極限にチャレンジするような戦いに、常に精神的アプローチで挑むことである。例えば、悪天候に見舞われる。すべては自らの行いにあるため、山の神がお怒りになったと解釈する。だから懸命に自らを省みて問題点を探り、謝罪を祈りに変える。山の神の前で、何かの、誰かのせいにすることは彼らにとって遭難と同義語なのだ。

 取材の待ち時間に何の気なしにテレビを見ていたら、こちらは海の神の話をしていた。マウイ島伝説の大波に乗るサーファーたちが、サーフィンとは神との対話であり、波は神の教えだと祈りを捧げる20メートル級の、想像を絶する波に乗るにも、フィジカルの話はほとんどされない。強靭な肉体は前提で、いかに心の鍛錬を追究していくかに焦点がある。偶然にも知るチャンスを得た山、海の最高峰を極めようとする、いわばスポーツの極限ともいえる挑戦の過程は、肉体と精神の究極のバランスを教示しており魅力的であった。

 悪天候で大幅に予定の遅れた交通機関でこの原稿を書いている。自然の神との対話をしようと自らの行いを反省していたら、あまりにも多過ぎて、どれが原因なのかわからなくなってしまった。

(東京中日スポーツ・2002.8.9より再録)

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