■セブンアイ
 
「祖父」


 W杯のために繰り返した列島大移動も間もなく終わる。荷物をガラガラ引いて駅を歩いていると、「抽選があります。願い事を」と、女性に短冊を渡された。
 七夕が近づくと、街のいたるところに「願い事」を短冊に書き込むコーナーができる。みんな、どんな願い事を書いているのかといつも見るのだが、自分のこととなると、つい「締め切りのない日」などと夢のかけらもない事を書いてしまい笑えなくなる。

 短冊に書いても叶わないのだが、今、会いたい人がいる。
 大正3年、ポルトガル語とスペイン語を学んだその人は「若狭丸」でブラジルに渡った。サンパウロを中心に25年間近く、外交官として暮らしながら日本の移民の力になったという。農作に苦労していた移民、そしてドイツ移民のために水稲栽培を指導し、日本から種を取り寄せ、いわゆる外米とは違う、日本米に近い「カテテ米」とう品種を生んだ、と本にある。
 その人は、私の祖父である。昭和19年に死んでいる。

「畳の端を踏んだら怒るような厳格な人だった」と、母は言う。「仕事一筋で、いつも移民の生活を考えている人だった」と、叔母は教えてくれた。最も移民の多いブラジルと、祖父と米を一緒に作ったドイツが、このW杯で決勝に進出し、横浜で試合を行う。ただの偶然を毎日取材しながら、祖父に会えたらと考える。

 若狭丸で何日かけて、どれほど揺られて、正反対に位置する国に着いたのか。外交官としての希望は何だったのか。広大な未開拓の地でいくつかの文化をつなごうとした苦労は、あの国の魅力、開戦によって両国の関係が悪化し家族全員で引き揚げてきた時の思い、それらをぜひ会って聞きたいと思う。

 ブラジルとドイツ移民のために作ったカテテ米はどんな味がするのだろう。祖父にはぜひとも決勝を見てほしい。サッカーが好きだったのか聞いていないが、切符はいらないだろうから。

(東京中日スポーツ・2002.6.28より再録)

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