彼女たちの笑顔
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


「それにしてもマスジマさん……」。
第5回世界陸上が行なわれているイエーテポリ(スウェーデン)からの国際電話で、日刊スポーツの陸上担当・首藤記者が苦笑いした。「陸上やってる人って、変わった人が多いんですねえ」。わたしも笑って返事をした。「でしょう?」。
 世界睦上については、連日、「またも見てしまった」と後悔しつつ、眠い目をこすっていた方も多いと思う。陸上を取材していると、国内、世界各国、変わった人に囲まれ、変わった話ばかり聞かされるので、ついつい感覚がマヒして、ちょっとやそっとでは驚かなくなる。サッカー・マガジンの兄弟・陸上競技マガジンのみなさんには本当にお世話になってきたので断っておくが、変わっているのは選手や指導者で、記者ではありませんので、念のため。
「変わってる」判定は難しいところだ。例えば、3段跳びのエドワーズ(英国)。18メートル台2度の世界新記録には無論興奮するが、その選手が敬虔なクリスチャンで、これまでの主要大会の選考会はいつも日曜の安息日と重なったため、大会でなく教会に出掛けていた、と聞けば「なんちゅうヤツだ」と、あきれるはずだ。一際足の短い山崎一彦が、400ハードルで決勝進出なんて言えば身を乗り出すし、高い契約金には目もくれず、灼けるように(40度を超えることもある)熟いトラックを裸足で走り、ウイニングランになってなぜかシューズを履くメダリストもいる。やっぱり変、ですよねえ。
 おなじみの真夏の祭典で、その「愛すぺき変人たち」を横目に見ながら郵便の整理をしていると、小田原の川田さんという女子高校生からいただいた手紙があった。「いろいろなな選手を取材してうらやましいです。好きな女性選手は誰でしょうか?」。夏体みの自由研究で女性選手の活躍を網ぺたいそうだ。潔くって、多少の無理を承知で信じる道を前進し、そのうえ、そういうことに、決してシリアスにならない、というのが好きな女子選手の条件で、たくさんいます。こちらも変わってる、と言えば、まあ、かなりのものだが、とにかくカッコいい。*今回、ぜひご紹介したい2人は、イエーテボリにいた。
 世界陸上直前、新聞の片隅に小さい記事が載った。「女子1500メートルに出場するブールメルカ(アルジェリア)が、イスラム過激派の武装グループから襲撃の脅迫を受けていることが明らかになった」とある。「まだ、戦ってるんだ」。少し、胸が痛くなった。
「これが現実なの。でも、たとえどんなことがあっても、可能性は捨てない。この金メダルがどれだけの勇気と未来をわたしに与えてくれるか」。
初めてハシバ・ブールメルカに会ったのは、'91年の東京世界陸上だった。アルジェリア女性で初めてのメダル、それも金メダルを獲得。道路で声をかけると、うれしそうに話してくれた。半パンに、ソックスを上げ、肩も出さず、極端に露出度の少ない彼女の後ろを、ハイレグ、化粧やピアス、指輪をした女子選手が行き交う。東京でも脅迫を受けていた。なぜか。イスラム教の同国では、女性が肌を見せて人前に出るのは戒律違反になるからだ。
 ランニング中に生卵や石をぷつけられ、試合に出ようと競技場に着いたら、保守派に締め出された、そんなことも一度や二度ではない。しかし彼女は差別をものともせず、走り続けた。バルセロナ五輪の金メダルで国中を熱狂させ、'93年、ドイツでの世界陸上で再会した。「怖くないの?」と聞くと、「自分の国を嫌いになることなんてできやしない。それに応援してくれる女性の方が多いくらいよ」と、相変わらず露出度の少ないユニホームで笑い飛ばした。今大会も、市内のホテルで24時間の警備下に置かれたようだ。下馬評は低かったが、すさまじいラストスパートで金メダルを手にし、国旗に口づけを繰り返していた。
 女性のスポーツや、選手自身が「きちんと」扱われるようになったのは、たぶんここ10年のことだろう。プールメルカのように、競技をするだけで「女の分際で」と差別されながらも、先駆者として踏ん張って来た女性たちの時代でもある。メダルを手にした人もいるし、まったくの捨て石になった人もいる。あの女子マラソンさえ、五輪で正式種目になったのは、'84年のロスからで、当時は「女にフルマラソンなんか走れるわけがない」と散々こきおろされていた。そして、12年ぷりにアメリカにオリンピックが戻る来年、偶然にもまた女子新種目が誕生する。サッカーだ。
「レベルは今とは比べられないほどでした。ええ、当時はサッカーをやっている、なんて絶対に言えませんでしたからわ、ずっと隠してました」。山田弥生さんは、思い出し笑いするように、小さく吹き出した。電話の向こうでは、2人のお嬢さんの声が響く。山田さんたちFCジンナンのメンバーは、日本女子サッカーにとって最初の、'80年全日本女子選手権の初代女王である。'79年3月に女子連盟が誕生し、FCジンナンはサッカー・マガジンにメンバーの公募広告を出した。ジュニア用スパイクに、男子Sサイズのサッカーパンツをダボダボで履き、練習場も見つからない、そんな中で、嬉々として練習をしていた。
「差別など感じませんでしたが、笑っちゃうような反応もありました。スポーツ新聞にも出たと思いますが、サッカーやると子供ができない、なんて書かれて、ずいぶん大きな話になってしまったり」
「エッ、うちじゃないですよね」
「だと思いますけど。ほかにも、いい加減にしてよ、と思うほど、しつこく、胸でのトラップについて聞かれましたね」
 当時の記事を読むと、女子には胸のトラップが危険だと、盛んに心配している。それがために、女子だけのルールを作ろうという話もあったという。胸トラップの際には、手の甲を使って一度落としてもいいというものだが、いくらなんでも、ハンド容認になる。実現はしなかった。「時代がもう少し遅かったら? いいえ全然思いません。当時は変わってるって思われたでしょうけど、それでもみんなサッカーが大好きでした。アトランタでは本当にがんばって欲しい、サッカーをやった女性みんながそう祈ってると思います」。開幕したばかりのLリーグにも、先輩たちの思いは届くと思う。
 さて、2人目の選手は、イエーテボリ最終日に、金メダルを手にして泣いていた。こちらも「女子には過酷すぎる」と、28年、アムステルダム大会を最後に中止されてしまった女子800メートルの話だ。アンナ・キロットはキューバでは、かのカストロに次いで知名度が高い、と形容される。キューバなどが国際大会に復帰した4年前の東京世界陸上で、初めて取材をした。確か4位だったが、「練習、練習、また練習しかない。たとえ望んだ結果でなくてもネ」とウインクし、'93年の世界陸上で取材するのが楽しみだった。
 しかし'93年1月、自宅アパートでガス爆発に遭い、体の約4割をが火傷して重体になった。練習どころではない。心肺機能へのダメージもとてつもなく、まして800メートルなど走れるはずがない、と医者は断言した。さらに数か月後、今度は火傷と手術が原因で流産。腕、肩、大腿部と、露出される箇所に限って、移植の跡は壮絶なものだ。しかし今大会、彼女はその傷跡を隠したりしなかった。「今までは自分のために走ると思ったけど、応援してくれたみなさんのために走ると思ったら、すごい力が沸いてきた。生涯最高の勝利です」。ライバルたちは、「神様が後ろから押しているみたいだった」と、奇跡的なカムバックを形容した。表彰台で一筋の涙を斌ったが、その後のインタビューですぐに「来年のアトランタ五輪でメダルを狙います。その前に困難な選考会がありますけれど」と白い歯を見せて笑っていた。困難な選考会とは、8回目の皮膚移植手術のことを指す。
 世界陸上、五輪とも真夏に行なわれるため、8月になると、いつも彼女たちの輝く笑顔を思い出す。獅子ケ谷グラウンドで空を見上げたら、もうウロコ雲が出ていた。今年も夏が、掛け抜けたいった。

(週刊サッカーマガジン・'95.9.6号より再録)

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