ヒモは突然、切られた
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


「それで」……で、腕をバシッ、「ザイゼン君は、」で、今度は足首をバシン、「だからね、説得はしたんだよ、あんな説得は初めてだったけどさあ」で、ついに森孝慈ゼネラルマネジャー(横浜M)もバチッ、と、森GMとわたしは、自らの手足をビシバシひっぱたきながら、獅子ヶ谷グラウンドのベンチで話していた。なんで、こうビシバシ、とせわしなく擬音が入るのかと言いますと、夏の夕方の獅子ヶ谷ほ、ヤブ蚊の天国と化すからなのだ。
 森GMは、血中アルコール度が高いため! シャツの上からも刺される非常事態に陥り、取材は途切れがちではあった。それでも、何故、財前恵一選手(27、MF)が、急に、選手登録を抹消したのか、その経緯は知ることができた。市販のニコスシリーズ用プログラムに彼の名前も入っていることからも、いかに急なことだったかがわかる。
 財前宜之君(18=川崎)、つまり恵一の弟の方は、セリエAラツィオのプリマベーラ行きが決まっている。
 偶然にも、この華々しいニュースが出たのとほぼ同じ時期、兄はじつにひっそりと、最愛のチームを去った。
 昨年、当時JFLの柏に移籍したが、左アキレス腱を切断。手術後、リハビリに明け暮れた。オフには戦力外通告を受け、1年で古巣に移籍。入団発表では「マリノスの御恩は一生忘れません」とあいさつし、記者や関係者の爆笑を誘ったが、このとき本人は笑ってはいなかった。不運にも、今度は逆足のアキレス腱を切り、またも手術とリハビリの生活に戻った。しかしクラブは、第2ステージの契約続行を決め、あとは本人のハンコを押すだけだったという。
 しかし契約書を前に、財前は「契約は第1ステージのみでした。十分助けてもらいましたし、もう心苦しい。あとは1人でできるところまでやってみます」と、頭を下げた。森GMは面食らった。「辞めるという選手に、いいから早く契約書にハンコを押せよ、と説得するのは初めてだった。でも男が、それも1人のプロ選手として決めたことなら、それも尊重せねばならない」と、ついに登録抹消を決めた。今は1人で、黙々とトレーニングを続け、もう一度プレーする日を待っているはずだ。
 プロには、人事異動の激しさはツキものだ。引退、移籍、トレード、解雇……。「何でもあり」、が、この世界のたったひとつの掟といえる。記者ならば、誰だっていちいち驚いたりはしないし、もう慣れっこになっている。それでも、財前のようにあたり前のように取材していた相手が、急にいなくなるのは、なんとも拍子抜けするものだ。秋風が土手を吹き抜けて行く日、平塚のニカノール・ヘッドコーチへ(48=ブラジル)も突然、大神グラウンドからいなくなった。「やめときゃいいのに試合を1分見ては、チャンネルを変えたりするんだ。ずっと見てられないんだよ。バカみたいさ、ウロウロして」。ニカノールは白状した。9月2日、自分がいなくなって最初の試合、広島戦を試しにテレビで観戦してみたが、「観戦」などできっこない。
 タサカ、ポジショニングを確認しろ、ベットは逆サイドを使うんだー、ナラハシいい切り崩しだぞ、ノグチ、シュート……。そうつぷやいているうちに、血圧が急上昇するのがわかる。家族は帰国しているので、1人きりで寝床についたが、眠れない。早朝、ついに「心臓発作」が起きて、隣に住むベッチーニョに、病院に選んでもらった。
 チームの成績とともに上昇し始めた高血圧のため、試合や練習中の心臓発作に備えて、発作を抑えるニトログリセリンを携帯するのは、古前田監督の役目だった。イザというとき、ポケットから取り出し飲ませるのも監督の役目と、2人で決めてあった。しかし、この日、監督は隣にいなかった。
 ニカノールの解任劇で、誰よりショックを受けているのは小前田充監督(45)だろう。シーズン途中で、プロの監督が弱音や、泣き言など吐けるはずない。自分の「感情」など後回しにしなければ、仕事はできないものだ。Jリーグ広しといえども、解任が決まった日、駅前の居酒屋で涙ながらに飲み明かすヘッドコーチと監督は、2人をおいてはほかにいないだろう。
 2人は、Jリーグにあって特別頑丈な「二人三脚」を組んでいた。監督が転んだら、ニカは引きずってでも走り、ニカが転べば、監督がすかさず──ちょっと重いが──抱えて歩き出した。「担当記者として、もっと美しい表現はできんのか!」と、2人からドツかれそうだが、そんな二人三脚だった。ところが、ヒモは突然、ハサミで切られてしまった。
「'91年、初めてブラジルで会った日のことは忘れません。ニカはスソが破れたTシャツを着て。お金に困っているんだろうな、と内心心配したんです」。監督はなぜか、初対面の話になると笑い出してしまう。破れたTシャツは、単に無頓着なだけで、お金に困っているとの心配も無用だった。有数の大牧場主の息子だったのだから。
 監督は、ブラジルの「攻撃サッカー」を熱っぽく話すニカノールが好きになった。かくして、肩書だけ背負う監督と、戦術、強化すべてを担当するヘッドコーチ(一般的にはこれを監督と言いますからね)というおかしなコンビが誕生した。ニカが戦術を決め、選手とのパイプ技は監督がする。しかも、不思議な英語を使って、だった。
 ニカも、初めてグラウンドに来た日が忘れられない。選手の練習着がバラバラなことに驚き、芝のない、土のグラウンドを見てめまいがし、ゴ−ルや施設、何よりも当時の選手の技術を見て、倒れるかと思ったそうだ。それほど何もない、荒野からのスタートだった。ジーコが住金時代から、鹿島をJリーグで優勝チームにした話は有名だが、じつはニカノールもまったく同じ時期、ジーコ同様、日本リーグ2部で戦っていた。監督はよく「もう1人のジーコ、といっていい功労者です。ただし、ジーコより動きが悪い」と、腹のあたりをさすって笑っていた。
 旧知の友人ジーコを5−0で下し、ほくそ笑んだこともある。野口をFWに、岩本を左サイドに、名良橋を右サイドにして挑んだ初試合は富士道戦で、来日初勝利はNKKとの対戦で2−0だった。そう話すうちに、ニカの目は充血していく。1日中、ひと言も交わさず「それではお先に失礼します」と監督が帰る日もあったし、共通の趣味の「ログハウス」のカタログを、2人で必死にチェックしているのを目撃したこともある。ニカが怒鳴った選手を、監督があとから「本当はこうなんだ」とフォローしているのを見たこともある。ブラジル人と岩手県人、サンバと演歌、どう見てもミスマッチなのだが、二人三脚で突っ走った2人の足首をつないでいたのは、どうやら、ただのヒモではなかったらしい。
 選手はよくがんばった。しかし、無駄な自己主張をせず、ウソをつかず、勝負の世界にあってなお、親友としても尊敬し合うという至難の技を貫徹した2人の力なしでは、平塚は絶対にここまで来ることはできなかった。「4年間、ずっとおんぶにダッコで。いざ1人になると、監督業はこれほどしんどいのか、と思い知りました。ただ、彼のためにもギブアップはできない。ブラジルサッカーは敵に背中は見せない、アタック(攻撃)あるのみ、と、わたしも教えられたのですから」。4年間を胸にしまい、監督は今、踏ん張っている。
 先日、平塚競技場に行くバスの中で、隣にいた親子連れのファンと話をした。仕事で行く、と言うと「あのう、ニカノールさんへのセレモニーなんかはないんですか」と聞かれた。
 自分はスポーツ音痴だったが、この4年間、平塚にどれほど楽しませてもらったか、2人の息子との共道の話題ができたこと、ポルトガル語にも興味が出てきたこと、などを話してくれた。そして、もし会うことがあったら「本当にありがとうどざいました、とお伝えください」と言われた。すると、小学4年生の息子が隣で、「お母さん、ポルトガル話のどうもありがとう、習ったじゃない」と、抽を引っ張った。
「ムイント・オブリガード、って!」

(週刊サッカーマガジン・'95.10.4号より再録)

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