イングランドの「疲劇」
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


「さあ、ここが、イングランドサッカーの誇りが宿る場所です。外観は古いが、中は手術室まである超近代的施設です。どうです、この美しさ!」。有無を言わせぬ感想を求められたが、感激よりも先に、顔をしかめていた。「うっ、美しいです、ハイ。でも……何か、臭いませんか? そのー」「ウエンブリー株式会社」と刺しゅうきれたエンジのブレザーを着た案内係、ブラックフォードさんは笑い出した。「いやあ、夕べ、ドッグレースがあってね。まだ、片付いてないもんでさ。その辺にナニが……残ってんだな」。
 これが、サッカーを愛する人たちの憧れ、「ウエンブリー・スタジアム」に最初に足を踏み入れたときのことだ。ほかの記者や関係者の方々の感激は、大きく違ったものになってしまったが、わたしがやると、いつもこうなる。
 ウエンブリーには、スタンドとグラウンドの間に、5メートル幅の砂のトラックがある。財源確保のひとつで、毎週、月曜日と木曜日はここでドッグレースが開催される。火曜日の朝、聖地にゴミと、外れ馬券ならね「外れ犬券」が舞う中、人のいい、この黒人のおじいさんが案内をしてくれた。世俗の固まり、ギャンブル場の向こうに、ピッチが輝く。
「ピッチに足を入れられるのは、世界中から選ばれた選手のみです。創立以来もう70年も、そうやって選手を迎えているんです。アッ、絶対にダメですよ。たとえ女性でも、取っ捕まえますからね、そんな事をしたら」。芝には絶対に入れない。何度か強行突破を試みたが、ブラックフォードじいさんは笑いながら、半ば本気で制止した。「70年間、変わらねピッチね……」。そうつぷやきながら出口に近づくと、おじいさんが背後で言った。「日本は、神に選ばれてここに来たんです。必ずいいことが起きますよ。あたたと、ニッポンサッカーに神の御加護を祈ってます!」。そして、温かな握手をして見送ってくれた。
 さて、「いいことがある」と予言してもらったアンブロカップ中、代表について、ロンドン、バーミンガム、リバプール、ノッティンガム、そして再びロンドンと、車と列車で動き回った。早朝に朝刊を買い込み、せんべいみたいなイギリス風トーストをバリバリかじりながら、「なぜ、ここまで硬くするウ?」と、文句を言いつつ新聞を読む。朝刊の見出しは「カミカゼ」「バンザイ」「ハラキリ」と、日本のスポーツ新聞に比ぺ、著しくイマジネーションに欠けていたが、多くは好意的だった。
 ただし、世界No.1のブラジル戦だけは、訳が違った。GK小島(平塚)の指は、レオナルド(鹿島)の反則で骨折したものだ。相手の指を骨折させるほどの反則を犯しながらも、彼はポールを追い、ハッとさせるようなパスを出そうとした。試合後「美しい、これぞブラジルサッカー」と、はしゃぎまくるブラジルの記者をかきわけて、小島が声をかけてきてくれた。
「オレわかりましたよ、アイツら、カナリア(ブラジルの黄色のユニホームを指す)着ると人格、変貌するんだ」。小島はタラコ指に氷を当てながら、顔をしかめた。「黄色のカナリアね……それにしても、何を食ぺればあんなタフなカナリアになるわけ?」。もはや力なく笑うのが精一杯というわたしたちの後ろを、子供が紛れ込んだのかと錯覚させるような、か細い「カナリア」が歩いていった。小島と30センチは違う少年は、しかし「ただ者」ではない。今大会、彼を通して見たものが、いくつもあった。
 ブラジル戦を前にしたグディソンパークでの練習で、今回の10番・ジュニーニョ(22=サンバウロFC)を初めて間近で見た。ユニホームはジュニアユースのなんだぜ、とブラジル記者がからかっていたが、本当に袖がダブついて、シャツもワンピースを着ているみたいだ。身長166センチ、体重52キロの新10番は、このとき、医師から身体データについて忠告を受けていた。
 束になった紙には、試合後の血液検査から、疲労度を測る血中乳酸値や、肝機能の値などがびっしり書き込まれ、それぞれに優位の順がつけられていた。科学的な医学管理を徹底させるサンパウロFCといえば、昨年以来、日本サッカー協会・科学研究会の方々がトリビオ医師(パウリスタ医学大)を通じて紹介されているので、ご存じの人も多いと思う。
 か細かったジーコが、フラメンゴで徹底的な肉体改造を受けて成長したように、ジュニーニョにも食事、筋力トレーニング、睡眠時間に至るまで、強化プログラムが組まれている。「ブラジルなら、子供の技術的なレベルはそう変わらない。ならばどうやって優劣を見るか、それは体力です。優れた基礎があり、初めて華麗な技術が発揮できるんです」。代表のドクターは続けた。「ジュニーニョの筋力データは、ほとんど下拉ですが、ただひとつ、現在の代表中、中距離走と持久走がトップクラスにあります」
 中距離は、陸上故技でももっとも苦しい種目で、欧米ではマラソンではなく、800メートルや、マイル(1600)の勝者を「ザ・ランナー」と、崇拝する。陸上を取材している時、よく「死ぬう、心臓が口から飛び出す」と、ゴールした中距離選手が目の前で失神していたが、レースのほとんどを無酸素で走るのだから、まさに地獄の苦しみだろう。
 今大会、もっとも強く感じたのは、日本は「短距離サッカー」であり、ほかの3か国、とりわけブラジルは「中距離サッカー」を徹底させているということだ。日本だって、ゴール前、さらにサイドバックも一瞬のスピードはまったく負けていない。しかし、それを連続できない。わずかなスタミナの差が余裕を奪い、最後は敗戦となって帰ってくる。
 ここで、わたしの作った、詳細な(!)データを紹介しよう。加茂監督になってからの日本代表の失点である。1月のインターコンチネンタル杯では、ナイジェリア戦(0−3)で後半2点、アルゼンチ戦(1−5)で後半3点。ダイナスティ杯は、香港戦のみ無失点で、韓国戦(1−1)が後半の失点、中国戦(2−1)も後半の失点、きらに決勝の韓国戦(2−2)では、またもやロスタイムで1失点した。
 さて、アンプロカップは……。イングランド戦(1一2)が後半2失点、ブラジル戦(0−3)も後半2失点で、スウェーデン戦(2−2)も後半2失点と、すべて同じパターンである。今大会7失点中6失点は後半のもので、加茂ジャパンとして(蒙州親善試合はのぞく)ここまで19失点中、じつに14失点、つまり全試合の74%が後半の失点である。
 この力作データにも、協会科学研究委員会の戸苅晴彦委員長は驚いてはくれないだろう。後半の失点は、生理学的な観点から言えば常識だからだ。日本代表の場合、後半の落ち込みは極端だ。加茂サッカーを支えるスタミナという屋台骨は、いささか弱い。ジュニーニョは、当たればすっ飛ばされる肉体でも、最後の最後まで走り抜き、サイドバックは、長いレンジを全速力で何往復しようが平然としている。「思考能力と疲労度」の科学的根拠があるから、ドーハは悲劇なんかではなく、「疲劇」だと考えてきた。そして基礎に取り組まないと、何度でも起きる。
 ちなみに今大会中、同時進行で全仏を制したテニスのシュテフィ・グラフは、ドイツ国内の陸上800メートル元ジュニア記録保持者でもある。男子顔負けの恐るべきストロークは、腕力のなせる技ではない。中距離トレーニングは、地獄の苦しみだ。自分がやれと言われれば、ていねいにお断りするが、フランスW杯へのカギは、あと何メートルかの「距離」が握っているような気もする。
 ウエンブリーの誇りと、カナリアの意地が激突した最終戦後、ジョルジーニョ、レオナルドと、フィールドを横切って移動バスまで歩いて行った。別れ際、2人の「チャオ!(パイパイ)」という声が、7万人を飲み込み、そして空っぽになったスタンドにこだました。わたしは、ブラックフォードじいさんがいないか辺りを見回して、芝をソッと触った。

(週刊サッカーマガジン・'95.7.2号より再録)

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