開幕の「匂い」
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


 初め会ったのは、桜の樹の下だった。桜の季節はここに限る、と約束の場所に指定されたからだった。「春はいいね。こうやって桜吹雪のなかをのんびりと走るんですよ、いいでしょう。そもそも、走るってことはね、自然と自分を一体化することなんだって、思うんだよね。まあ、のんびり待っていてくださいよ、ここで。ちょっとで戻ると思うから」。三鷹市野川公園の桜の下で、NECホームエレクトロニクス(NEC・HE)陸上部・佐々木功監督に初めて会った日の会話だ。「ちょっと」で戻るはずの浅井えり子は、本当にのんびりと、2時間近くも走り続け、「マラソン選手のちょっとには、用心しよっと」と、固く心に誓ったのを覚えている。
 あれから10年近く経ったこの春、数か月ぶりに会った監督は遺影のなかにいて、浅井は喪主を務めていた。
 サッカーの取材から通夜に参列したため、最後の弔問者になってしまった。人もまばらになった祭壇の前で、浅井にかける言葉は、何ひとつなかった。代わりに、「お疲れさん」などと間抜けな言葉をかけて笑わせてしまい、さらに間抜けなことに、監督の死を伝えた、3月14日付のスポーツ新聞の束を渡した。
 ご存じの方も多いだろう。3月13日、名古屋マラソン優勝からちょうど1年目のこの日、最後の6か月間は夫でもあった佐々木功監督が、皮膚ガンのために死去した(享年52歳)。陸上を担当していたことから、もう10年来、取材を通じて付き合っている。Jリーグの開幕にふさわしい話題とは思えないが、今回のコラムは、彼ら2人のことを書くことにする。サッカーボールは一度も出てこないので、マラソンなどという、地味で、暗い競技に関心のない方には申し訳ない。たとえ読んでいただいても、せいぜい、スポーツ界にはこういう人達もいる、ということを知ってもらえる程度にすぎない。
 陸上の長距離には、LSD、という練習法がある。Lはロング、Sはスロー、Dはディスタンス、つまり、「ゆっくり走れば速くなる」という意味で、監督はこの理論を実践で確立した指導者でもある。
 2人に始めて会ったころ、女子マラソンなど、男子のオマケどころか、「女が42キロを完走できるはずはない」、「過酷すぎる」とあしらわれていた。女子マラソンが五輪正式種目に加えられたのは、'84年のロサンゼルスからのことで、その2年前の'82年、ただのジョガーだった浅井は、監督の門下に入っている。
「女なんて教えたくない、って正直思ってたね。それに浅井は、太ってたし。でも、ひたむきさというか、そういう懸命さには、随分驚かれた」と、監督は話していた。当時から、少女たちが、猛練習で貧血を起こし、極端に体脂肪が減ることから生理が止まり、さらに、骨を生成する女性ホルモンの異常で、骨のなかが空洞化してしまう病気が併発されるなど、さまざまな障害が叫ばれていた。精神的な「燃え尽き」も問題だった。
 しかし、浅井は'88年のソウル五輪で、日本女子最高の25位に入ったあとも引退はせず、こうした若年層の障害、精神的な「バーン・アウト」の流れに挑戦するかのように、記録を伸ばしていた。わたしの知る限り、一度も故障を起こしていない。
「何でなの? わたしだって、30歳を越えたら、ドッと来たのに。電車乗ってもすぐ寝るし。尊敬するなあ」と聞くと、「ほら、もともと、ゆっくりやってるからさあ、才能もないし、あとから始めたからいいんじゃない」と答える。わたしたちは幾度もこんな会話をした。
 何よりの理由は、監督が浅井を、「いつまでも、心身とも新鮮な状態に保つ」ために考えたトレーニングが多彩だったからだ。ソウル五輪を前に、富士山への登山ランニングをしたこともある。彼らはよく、高尾山へ山菜採りを兼ねた登山ランニングに出かけた。空気が薄いところで走れば、その分、平地での酸素摂取量は高まる。今では常識的な「高地トレーニング」のはしりだろう。エアロビクスにクロカン、気功、腹式呼吸、体重移動をスムーズにするため、高ゲタをはくことなど、挙げたらキリがない。30歳を越えて、トラック2種目で事故新記録をマークし、マラソンでも一昨年、自己記録の2時間28分22秒を出して見せた。
 昨年9月「忙しいと思うけど、時間があったら」という誘いで、結婚披露宴に出席した。「監督を励ます会」というのは、いささか気になる名称ではあったが……。
 会場に着くと、車イスに乗り、満足に話すことさえできない監督が自ら、出席者を前に「ガンで、あと1か月の命かもしれない」と公表していた。出席者の何人かは泣き出したが、浅井は笑っている。「ここで投げ出すわけにはいかない。最後までがんばるから、よろしくね」と話し、監督はこちらに右手をあげた。余命を知って入籍したが、すでに転移している状態だった。
 浅井はつきっきりの看病のため、病院のベッドで眠り、食事もろくに摂らず、無論風呂にも入れない。とくに、1日たりとも練習を休まないトップランナーにとって、走れないことがこたえた。夫婦としてより、遥かに長い時間をかけて師弟として築いてきた「競技生活」が崩れることは、自分たちの一部を切り裂かれるような思いだったのだろう。「13年もかけて築いてきた肉体は本当にボロボロ。監督がいなければ、競技はもうできないね」と、涙ながらに話したこともある。
 しかし、監督は「エンジンのないグライダーみたいなものなんだ、浅井は。40歳になっても50になっても、上昇気流を体で見つけて、悠々と女子マラソン界を駆け抜けてほしいんだ」と、繰り返していた。
 昨年12月、驚異的な回復を見せて、2人でホノルルマラソンに挑戦した。結果は2位。帰国した浅井は、「レース中、抜かれたらチキショウって思ったの。感動のレース、なんて報道されたけれど、じつは感動どころか悔しい、悔しい。でも、競技者としての自分が、まだいたことがうれしかった」と、教えてくれた。監督は1月末、チームの西伊豆合宿に車イスで参加し、愛してやまない現場に立つことはもうなかった。意識がなくなる直前の3月5日、「いいから、走っておいで」と、浅井を三浦マラソンに送り出している。報告できたレースは、これが最後になった。
 披露宴のとき、監督はこんなことを話していた。じつは、具合はずっと悪かった。しかし、3月(昨年)には浅井が出場する名古屋マラソンがある。精密検査など、受けられる余裕は、とてもない。そして4月、陸上のトラック・シーズンが開幕する。「シーズン開幕という大切なときには、病状が悪化しても、選手をおいていくわけにはいかなかった」と。
 そういえば、ベルマーレで「早いね、もう開幕か。こうやって、またひとつ年を取るんだね」と言い、野口と田坂に「待ちに待った開幕ですよ、もっと明るい励ましをしてください」と叱られた。開幕という響きには確かに、人の気持ちを高ぶらせるような何かが潜んでいる。
 18日、国立競技場の川崎対平塚戦で、雨に濡れた芝、石灰、選手のマッサージオイルや汗、観客の熱気、売店のコーヒーなどが交じり合った、何とも言えない開幕の「匂い」を、ふと感じた。国立競技場は、陸上のメッカでもある。監督がいつも、選手に指示を飛ばしていた通路に、この日はテレビ機材が積まれていた。手を合わせながら、もしかすると、監督もこの開幕の「匂い」を感じたくて、昨年の春、入院を拒否したのだろうか、そんなことを考えた。
 浅井は、過去34回ものマラソンですべて完走し、今回、もっとも厳しいレースも、見事に完走したという。今夏、アトランタ五輪の選考会が始まる。わたしには、彼女がどうするかわかっている。結果はともかく、あの監督と13年も競技を続けた彼女が、選考会のスタートラインに立つことを、あきらめるはずがない。
 そうして、また、桜の季節がやってきた。

(週刊サッカーマガジン・'95.4.12号より再録)

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