「あひるの子」の変身
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


 あれは何年前のことだっけ? '92年アルベールビル五輪の直後か、その前だったか、ああ、思い出せない、情けない。沖縄・那覇空港の出発ロビーで、考え込んでいた。「まだ乗らないんですか?」と、こっちを気遣い、振り向いてくれた横浜Mの鈴木健二は、その瞬間灰皿に激突し、井原正巳が三浦文丈と、「お客さん。前、見てくださいよ!」と爆笑しながら、鈴木をからかっている。
 沖縄でのプレシーズン・マッチ語、東京行きの最終便を待ちながら、ボンヤリと大型テレビを見つめていた。ロビーがガランとしたころ、ノルディックスキー複合の荻原健司(北野建設)がスポーツニュースに登場してきた。12日、複合W杯史上最多の通算15勝をあげたという。
 あれは何年前か、荻原と河野孝典(草津温泉ク)がヨーロッパから帰国したとき、成田空港に取材に行き、表彰式に一緒に参加したことがある。
 日焼けした山男みたいな2人は、大きなリュックを1つ背負い、ロビーに出てきた。「表彰式なら着替えなきゃダメですよね」と、本当に小さく折り畳んだ、何とスーツ! をリュックから取り出した。「あのねえ、ドラえもんの風呂敷じゃないんだから、そんなあ」。思わず吹き出したのを覚えている。切符はもちろん格安のエコノミーだから、オーバーチャージ(荷物の重量オーバー)なんてとんでもない。1つのリュックに何から何まで、それこそスーツだって詰め込む。1泊3500円から4000円の、地元の民宿に泊まりながら、ヨーロッパ中を2か月も転戦していたのだ。
 荻原が、「金メダルよりもほしい」と夢見た、W杯史上最多勝利をついに手に入れたと、那覇空港の待合室で知り、何年か前の空港でのシーンが頭に浮かんでいたのだ。ジャマイカの「クールランニング」ほどではないが、日本人が「キング・オブ・スキー」と、ヨーロッパで人気と尊敬を一身に集める競技で、頂点を目指すなんて、それはもうほとんど「ジョーク」のようなものだった。「たいしたもんだね」。画面にそうつぶやいたとき、空港係員の女性が「登場の最終案内です」と、教えてくれた。
 2つ前の号で、ザイさん、と言ってもみなさんおわかりにならないでしょうから、ちょっと気取って財徳健治氏が、「進歩のためには独自のサッカーを」と、コラムZに書かれていた。ユーゴサッカー協会ミリャニッチ会長が「コピーではなく、日本人独自のオリジナリティーを持ったサッカーを創造することが大切」と話されたというもので、じつは2月のスポーツ界のカギこそ、その「独自性」にあったと思う。
 荻原ら日本の複合やジャンプ陣は、「V字飛行」というスキーを逆ハの字に開く「独自」の技術で前人未踏の頂点に立った。そして、2月の同じ週、前近鉄の投手、野茂英雄は、ついにメジャーのドジャースと契約した。捕手に背を向けてしまう、セオリーにまったく反したように見える、これも「独自」のフォームを武器にした。早くも「トルネード(竜巻)」のニックネームで、選手名鑑に登録されたそうだ。「サッカーはワールドスポーツだし、歴史も規模も、オリンピックや野球なんか比べものにならないよ」という声はよく聞くが、その五輪にも久しく出ていないのだから仕方がない。それに、ときにはほかの競技をのぞいてみるのも、そう捨てたものではない。
 V字飛行にちいて、北海道日刊スポーツ、冬のエキスパート、塙部長に電話で聞いてみた。
「で、V字を最初に飛んだのは、確か、スウェーデンの何とか、っていう選手でしたよね」
「うん、ボークレブ。でも、本人は失敗と思って、スキーを立てちゃった(早く下りるため)んだ」
「ほとんど偶然でしょう?」
「それがさ、奇妙な浮力を感じて、行けるって思ったんだ。ところで、この選手は言語に障害もあるし、ひどく病弱だったんだ。医者はジャンプなんてとんでもない。この命知らず、って怒ってたんだけど、本人はジャンプで自分にしかない力を示したい、って挑戦したんだね」
 という具合に、これもまた独自性にこだわったボークレブが最初に飛んだが、スキーが開くなど、当時のジャンプではまさにご法度。「みにくいあひるの子」と酷評され、相手にされなかった。しかし、驚異的な浮力に気づいて、徹底的に研究し始めた人達もいた。日本のジャンプ陣もその1人だった。
「日本人は、痩せてて小柄で肩幅が広くていかつい。そんでもって、足が短い。ずべてV字にぴったりだったんだな、これが」と、複合の監督が笑って教えてくれたことがある。ハンディを、すべて「逆手」にとったのだ。オーストリアも、いち早く取り入れたが、体得では日本が大きくリードした。そして、このV字こそ、日本を世界の頂点に導く「伝家の宝刀」となった。
「V字は最初、けっこう勇気がいりますからね。大失敗する可能性もあるし、第一、周囲は、何やってんだアイツら? ってな感じで見てましたね。でも、これをマスターすれば、戦えるって信じてました」と、萩原は話していた。今では距離スキーの実力も上がったが、当時はジャンプで稼いで、逃げ切るしかない。作戦は見事に的中した。「みにくいあひるの子」とバカにされたV字ジャンプは、日本選手の活躍で、昨年のリレハンメル五輪では「世界一美しい新種の鳥」を、形容された。
 周囲が何と言おうと、自分の技に信念を持つ。それは野茂も同じだった。野茂はその信念を、テコでも曲げない。'92年、日刊スポーツのインタビューに答えている。「気の弱い子供でした。打たれるのではないかと、ビクビクして。そして、肩が柔らかすぎて可動域が広い。いいボールは投げられないと思った」。高校時代、大阪府大会で完全試合を遂げたが、甲子園とは無縁。しかし、新日鉄堺に入社したころから、クルッと背中を向けるテークバックに重さと、スピードがつき始めた。
 もちろん、何度も「あのフォームではプロでは通用しない」と矯正を受けるが、テコでも曲げない。先輩に忠告された。「たぶん、フォームの矯正は言われる。でも、男ならひとつくらい曲げられない信念を持つことだ」。言葉通り、プロ入り前には日米野球サミットで大リーグのコーチに「フォークボールの握り」を指摘されたが、これも変えなかった。そして今、独特のフォームは野茂とファンの夢をかなえ、ドジャースはこれに2億円を払うことになった。
 サッカーで、アジアの独自性をいえば、1966年W杯イングランド大会の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を思い出す。29年も前にアジア最高のベスト8を果たしている国があるのだ。この大会には、そう、横浜Mのソラーリ新監督がアルゼンチン代表として出場している。監督は昨年の米国W杯で、偶然にも、今度はサウジアラビアを率いて、アジアのサッカーを世界に示した。
「あのときの北朝鮮のサッカーには、本当の驚かされた。グラウンダーの早く短いパスを、じつに小気味よくつないで、多くの人があの個性的なサッカーにショックを受けていた」。監督は懐かしそうだった。「アルゼンチンタイプも、ブラジルタイプも、日本タイプにはなり得ない。今の日本の能力に、時間をかけて独自性を追求すれば必ず追いつく」。独自性の追求には、どうやら目先ばかりにこだわる「短気」は禁物のようだ。そして、周囲がたとえ何と言おうが、徹底的に研究した技術ならば、信念を持ち続ければいいのだ。
 複合陣は、V字飛行を身につける前の'88年カルガリー五輪(カナダ)では、個人戦さえ最高31位と惨敗している。野茂は、都市対抗野球の和歌山地区代表決定戦で、救援に出ながら決勝アーチを浴びた。ともに「屈辱」を、独自性のバネにした。
 この原稿の締め切りの日、テレビにまたも荻原が登場してきた。「うれしい。本当にうれしい、こんな大記録が達成できる日が来るとは思わなかった」。今度は史上初の、W杯個人総合3連覇をしたという。
「誰ひとり、そう思っていなかったよ、きっと」。画面につぶやいた。

(週刊サッカーマガジン・'95.3.19号より再録)

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