命の次に大切なもの
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


 ドーンとしたから突き上げられて、目が覚めた。時計を見たら、5時45分を指している。夢の続きなのか、現実なのか、一体、何が起きているのか、わからない。しかし、一瞬ふと、「これでこの世も終わりやな」、そう思った。
 そのうち、門のブロックが、音を立てて崩れていった。そして、ついに、屋根ガワラが、ものすごい勢いで落下し始め、窓ガラスを容赦なく、たたき割る。反射的にふとんで体を守ったが、奥さんに落下物が当たって頭を切った。
 揺れが収まったとき、粉々になった食器、本棚、倒れたタンスを見て、ようやく、これが地震だったこと、それもかつて経験したことがない「大震災」であったことが理解できた。そして、時計を見てもう1度驚いた。あの揺れで、チラッと見た瞬間から、ほんの1分も経っていなかったからだ。家はメチャメチャになり、奥さんが頭を切る大怪我を負ったが、ありがたいことに、とにかく家族の命は無事だった。
 これは神戸に住む、わたしの「先生」の話だ。この10年、「先生」には、マラソンを中心に陸上競技を、そしてあらゆるスポーツへの科学的なアプローチをたたき込まれ、どうしたら世界に肉薄できるのか、あるいはトップになれるのか、それに立ち向かう情熱、努力、執念というものを教えられた。
 阪神大震災から3日目、ようやく神戸に電話が通じたとき、私は柄にもなく手を震わせていた。「先生」の名前は、神戸ポートイランドに本社を置くスポーツメーカー、「アシックス」の三村仁司さん(46)。日本だけでなく、世界中のトップアスリートたちのシューズ作りの「名人」、あるいは「職人」として知られている。一昨年、サッカー担当になってから、ろくに連絡をしていない。怒っているだろう。「挨拶がないやないか!」と。先生はいつも、「お上品」だ。
「ミムラさん? マスジマですけど……」
「オー、オマエか、元気に生きとったんか! 何しとんねん」
「その言葉、そのままお返ししますよ。アー、心配して損した。それで、大丈夫ですか?」
「家のほうはもうアカンけど、たいしたことやない。それより、シューズのほうや。会社のみんなで3日かかって、なんとかしたけどな」
「選手のシューズどころじゃないでしょう」
「お前、何年仕事しとんのや。今年は1995年、アトランタの前年やで。シューズがどうかなったら、選手たちは、五輪前年の大切な1年をどうやって戦うんや」
 多くの社員の方々も、家は崩れてしまったが、命が無事とわかった次は真っ先に、選手のクツ型が置いてあるスポーツ工学研究所のことを考えた。電車はすべて止まり、車は大渋滞。家から5時間以上かけて、神戸の研究所にたどり着いた。
 ここには、Jリーグの選手たちやオリンピック選手、世界記録保持者、さらには、世界のサッカー選手のクツ型のオリジナルと、膨大なデータが保存されている。
 すべて、ジャストフィットに作られたもので、ざっと数えただけでも、その数は楽に1000足を上回るだろう。もし研究所が倒壊したり、あるいは火災にあったら、選手たちに、シューズの提供ができなくなってしまう。もちろん、ほかの場所にも十分なストックはある。しかし、コンピュータを駆使し、その上さらに、職人の感覚を加味して行う「形態測定」から完成するシューズは、データを失えば代替えは難しい。三村さんは言った。「命の次に考えたんは、選手たちのことや」。
 瀬古利彦(ヱスビー食品監督)、中山竹通(ダイエー)、バルセロナ五輪銀メダリストの森下広一、「コケちゃった」谷口浩美(ともに旭化成)、女子ではバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した有森裕子(リクルート)、山下佐和子(第一生命)、松野明美(ニコニコドー)ら、陸上長距離はもちろん、昨年100メートル世界記録9秒85を樹立したリロイ・バレル(アメリカ)のシューズも、この研究所で生み出された。
 瀬古や中山が常に世界を相手に戦っていたころ、三村さんは、シューズの底をじつに0,1ミリの単位で削ったり、厚くしながら、選手の記録を操った。1ミリではない。0.1ミリなのだ。シューズを、わずか130グラム程度に、最軽量化したこともある。2つの銀メダルと3つの入賞と、大成功を収めたバルセロナ五輪では、猛暑を前提にした。給水所で水分を多く補給すれば、その分シューズは濡れ、足にマメができやすくなる。そこで、シューズの一部分に、水分吸水率が高い、何と「紙おむつ」の素材を用いて特別シューズを作成もした。
 彼らの執念はいつも、科学的根拠に支えられている。サッカー界ではどうだろう。ラモスを筆頭に、柱谷哲二(ともに川崎)、沢登正朗(清水)に、小倉隆文(名古屋)、ガンバの山口敏弘らが履いており、さらに引退したが、リトバルスキー(前名古屋)、海外では、ライカールト(オランダ)、自らシューショップを経営するというフランコ・バレージ(イタリア)も、ここのシューズを愛用する。
 そしてじつは、テニスのオーストラリアン・オープンで、自宅(西宮)の全壊にも毅然とプレーを続けた沢松奈生子(松陰女大)もまた、研究所で作られたシューズを履いている1人である。
 みなさんも、よくご存じだったと思う。まつてウィンブルドン、ダブルスで優勝した伯母の沢松和子さん(現姓・吉田)は、自宅から電話できない家族に代わって、国際電話で叱咤した。「泣いているヒマなどない。あなた、プロでしょ? だったら、親の死に目に会えないことぐらい覚悟なさい。いいテニスをして、友達を勇気づけなさい」。21歳、多感な女の子は、伯母の言葉通り、勝負に徹した。「転んでケガをしても、それくらい、なんだ」。そう自分に言い聞かせた。
 三村さんが最初に考えたのも、沢松のことだったという。「家が大変なのはわかる。でもな、スポーツマンさんなんやから、メソメソせんと、仕事に集中してほしい。それが、プロなんや」。シューズは、オーストラリアのハード・コートに合うように作成し、沢松の武器でもあるフットワークを支えるため、足の底にはスポンジを入れ、さらに軽量化した。
 工場さえ機能していれば、いざというとき、すぐにシューズを作り直して国際便で送ることもできる。万全の体制を整えておくため、地震で雑然とした研究所内部を、全員で立て直した。この話は、大災害のなかでも、自分の仕事や任務に集中した人々の、ほんの一例に過ぎない。
 こちらは何一つ、助けになることができないでいるというのに、被災者の方から大切なことを教えられるというのは、一体どうしたことだろうか。
 Jリーグの義援金1000万円をはじめ、スポーツ界も支援に動いている。特にプロ野球選手は、1人で「年俸アップ分」と500万円、あるいは1000万の義援金を出した選手から、仮設トイレの寄付に、街頭募金、チャリティー・マッチと、非常に活発に動いている。
 先日、避難先の校庭で、「何が一番不自由ですか?」と、母親がインタビューを受けていた。「暖房が……」と、母親が答えるそばから、やんちゃ坊主が口を出した。「エーッとですね、遊ぶ場所がなくなっちゃったんでーす!」。母親は、スイマセンとテレビの記者に謝って子供をマイクから離し、少年はサッカーボールを抱えて、仲間と駆け出していった。
 彼らは、燃えようとする自宅や、倒壊した家のなかから、一番大切なものとして、サッカーボールやスパイクを持って避難したのだろうか。最悪の事態になってもなお、子供たちはサッカーを追いかけようとしているということ、そして、自分たちは彼らの憧れの頂点にいるのだということも、選手はどうか、忘れないでいてほしい。

(週刊サッカーマガジン・'95.2.15号より再録)

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