冬の一番星が光った
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


 気がついたら、目の前に車掌さんが立っていた。「き客さん! 着きました、終点です」。東京駅ではないか! 平塚から東海道線で1時間、すっかり熟睡してしまったようだ。いい歳をした女が、サッカーマガジンに顔を埋めながら熟睡とは……いやはや情けない。「いやあ、疲れとるんでしょう。さ、急いで、車庫に入りますから」。ナヌ車庫? 危ない所だったと、電事を降りると、北風が、眠気覚ましにホホをひっぱたいてくれた。もうそんな季節か。
 希望に満ちていた入社当時は、移動の時間は勉強の場だった。新聞の切り抜きを読み、読書をし、仕事の日記も2年ほどつけていた。希望はいつしか、幻滅、いや現実に変わり、今では乗り物に乗ればすぐに眠ってしまう、ていたらく。「初心忘るべからず」と、わかっちゃいるが、これほど難しいものはない。
 担当しているベルマーレ平塚が、せっかく優勝争いをしているのだ。平塚の、まさに初心の心意気を見習い、この1か月、毎日、「プレスルームから番外編、ベルマーレ帯同日記」をつけてみた。
 10月29日○ 午前中、のぞみで長良川での名古屋−平塚戦へ。スピード感という点で、のぞみが開通した'93年、Jリーグが始まったのは偶然ではないな、と恩いながら熟睡。ベッチーニョが勝利を、Jリーグ新記録、7試合連続ゴールで飾った。ベットと新幹線で話したことがある。憧れはゼ・セルジオ(現柏レイソル監督)だったこと、彼のポスターを部塵中に張り、プレーを真似したこと、お母さんはプロ入りに泣いて反対したこと、夢は、大好きな子供たちに、サッカーを教えること、など話してくれた。
 11月1日 大神グラウンドで練習取材。サラリーマンGK小島伸幸と雑談。今でも試合前は嫌で仕方なく、逃げ出せるなら逃げ出したい、でも、その「臆病」さに救われている、と言う。名刺にはフジタ総務部所属とある。4キロも減量し、スピードをつけたことが良かった。プロ契約について悩んでいる。
 11月2日○ FW野口幸司が活躍しガンパを下す。10月22日の市原戦では初PKを失敗し、同じ試合で2本目のPKを譲ってしまった。ニカノールコーチは試合後「ジーコも、スキラッチもPKを外す。だがな、2本目逃げるヤツなんているもんか!」と、ひどく怒った。問題は失敗ではなく、その後の姿勢なのだ。10日前、泣きそうな顔で競技場を後にした野口が、ヒーローインタビューの輪からこちらに親指を立てて見せた。
 競技場に入る前、渡辺貞夫さんの応援歌「オー、ベルマーレ」が聞こえた。冬のサンバもいいな、と、メモしておいた。それを見つけた大阪担当のニシオ記者が・「マスジャさん! 冬のガンバがどうしたんですか?」と聞く。「あのねえ、仕事熱心もほどほどにね」
 11月3日 久しぶりに川崎の練習へ行く。加藤久は「平塚? 見ててごらん、こっからだよ」とニヤリと笑い、ラモスも「うちが7、3で有利だよ」と断言した。加藤38歳ラモス37歳。「老獪」で手ごわいオジサンを前に、平塚の選手たちが、仔ヒツジに見えてきた。
 11月4日 岩本輝堆が「ねえねえ、オレの脚、カモシカみたいじゃない」と、脚を見せに来たので吹き出した。第1ステージとは比べものにならないほど、太ももの筋肉が大きくなったが言わなかった。今度一緒に、ザリガニ釣りに行こうと誘われた。
 11月5日● 三ツ沢で横浜F戦。田坂和昭が警告で出場拝止。入り口でチェアマンに「おう、どうした」と言われ、田坂は「スミマセン、警告で」と帽子を取った。チェアマンは「じゃ、苦戦か」と言い、古前田充監督は「闘志の空回りが心配」と言う。田坂がふとつぶやく。「そういえばさっき公文さんが、ひげそりに失敗して、縁起悪いってバンドエイド貼ってました」。その直後に、名塚善寛が自殺点をした。
 11月9日○ 平塚で浦和戦に勝利。試合前、古前田日監督と2人、ロッカー前のベンチで菊花賞の話をする。ナリタブライアンの南井騎手の「行こう、行こうという気持の強い馬で、それを抑えるのに必死だった」という話をする。「なるほど、行こう、行こう、を抑える、ですか」。監督が何を考えているか分かった。
 11月11日 午前中、フジタの千駄ケ谷本社へ。第1ステージ終了前、フロント石井さんは平塚で声をかけられたという。「石井強化部長(当時)! わたしはほかのサポーターから、ケチマーレ、ビリマーレと野次られ悔しい、なんて言われてさ」と、苦笑い。ケチマーレの方は知らないが、とにかくビリマーレではない。優勝もいよいよ現実味を帯びて、残り3試合。練習取材にも過去最高の50人が詰め掛ける。
 11月12日○ 磐田に辛勝。平石ドクターが観戦。平塚が強くなったのは「精神的に成長した」からではない。先生の350項目にも及ぶ血液検査、それに合う栄養学の指導やビタミン剤の補給。三宅公利トレーナーの発案で始めた、香りの治療アロマセラピーの効果、そして実は、東大内科珍療所が開発した心理テストで個々に必要なメンタルトレーニングまで受けていたのだ。巨人担当の頃、桑田真澄が「プロなら、収入の10%は、資本の体のケアに投資するべき」と、常に言っていたのを思い出す。
 11月14日 ベット、アウミール、テルがケガで練習リタイア。名良橋晃も実は、磐田バウスのひじ鉄ですでにろっ骨を折っていたのだろう。三宅トレーナーが、ベット、エジソンが3キロ、名塚が4キロなど、盤田戦後に急激に体重が減ったことを心配する。肉体の疲労が床困でグリコーゲンの蓄積ふぁできない。夏場なら水分なので問題がないのだが。ああ、これが限界ということなのか、と思った。
 ニカ、監督は'91年、2人でゼロからチームを育てあげた。互いを立て合う不思議な関係で、一緒に趣味のログハウス雑誌を見る。「コマエダは大親友だ」とニカは言う。監督に話すと、「うれしいですね」と、ふざけて泣き真似をした。真似ではないように見えた。先日、ニカの父親がブラジルから来日した。息子の日本での活躍を報じる切り抜きを見せ、「本当にありがとう」と、監督の手を握り号泣してしまった。
 11月15日 柏昇格の取材。帰り際、ゼ・セルジオ監督に「平塚の勝利とニカの健康を祈ってると伝えてくれ」と言われた。ニカの健康とは高血圧のこと。優勝戦線に加わってから、血圧降下剤を常用。最後は、ニトログリセリンをポケットに忍ばせてラウンドに立っていたのだ。
 11月16日● 鹿島は完璧な試合で平塚の夢を砕いた。ついに終わった。監督は「120%の力で選手ががんばった」と笑う。ニカの通訳・細貝君は、目に一杯涙をためながら必死で訳す。新人王を狙う田坂は、名良橋の母・幸子さんを「もう1人のお母さん」と呼び、毎日、食事を作ってもらっている。新人王をぜひ感謝に贈りたい、と話していたが「優勝できないと、タイトルなんて」と、口びるをかんだ。鹿島から選手のバスが出るとき、ほとんどの選手が、座席に深く座り、天井を見つめていた。木枯しの舞う冷たい夜だった。
 11月19日○ いよいよ最終戦、日刊スポーツの記録アルバイトともシーズン終了を喜び合おうと記者室に入ると、平塚担当の岡田君ではなく、福永君がいる。「オカダ死んだんです、交通事故で」。まだ19歳だ。大船在住のサッカー小僧。もちろん平塚の大ファンだった。「11位から首位でしょ。やればできるっていうか、いいっスよね、平塚好きなヤツ多いんですよ」と、彼は言っていた。非力ながら強くなろうとする平塚に、誰もが夢を投影していたのかもしれない。川崎に勝った最終戦、彼も見ていただろう。
 試合終了後40分以上経っても、サポーターは帰ろうとしない。「l年間ありがとうございました」と、名塚、野口、田坂やテルたちが、順番に右手を差し出してきた。握手をした時、彼らの後ろで、冬の一番星が光っているのに気がついた。

(週刊サッカーマガジン・'94.12.14号より再録)

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