ブラジルと日本
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


 前回の芝生検討委員会コラムが掲載された直後、編集部の伊東さんは「いやあ、ずいぷん反響があって好評です」と言った。
 反響と言うからには、手紙か何かが「ずいぷん」届いたのだろうと期待した。後日、担当の平沢君が、その「ずいぶんな反響」をコピーして来てくれた。何と2通もの! 激励の葉書ではないか。もう1人、雨の三ツ沢球技場で、「もしかしてマスジマさんですか? 続んでます。がんばってください」と言ってくれた青年もいる。3人もの御支持により、またも順番が回って来ることになったようだ。ありがとうごぎいます。
 第1ステージ9位の横浜マリノスが最少失点で、11位のベルマーレ平塚は最多得点で、第2ステージ前半戦のほとんどで首位争いを展開したのだから、まったくわからない。
 2位争いとはいえ、直接対決となった9月21目は、アルバイトのM君、S君と3人で第1ステージに結成した「横浜Mと平塚のチーム力検討委貝会」にとって、うれしくもつらい日だった。どちらを応援するかで、心優しい2人は大いに悩んだ。そしてこの日、横浜駅西口には、会員にしたいと思った人たちもいた。
 まずは、弁当を買っていた親子連れ。幼稚園児と思われる2人は、平塚の小さな旗をブンブン振り回していた。「お父さん、きょうベルマーレ勝つかな?」「わかんないょ。でもいいじゃないか。Jリーグ初めて見られるんだから」。切符、やっと入手したんだろう。もう1人は、三ツ沢まで乗車したタクシーのNさん。
「エーッ、マリノスと平塚ですか。どっちも好きなんですょ。第1ステージから思うと夢のようだ」と笑った。両チーム担当者としては、こういうファンを名誉会員にお迎えしたい。
 さて、時に、思わぬものを、思わぬ所で見つけることがある。最近、そんなことがあった。場所は、JFLが行なわれた江戸川区陸上競技場。発見したものは写真だ。今回は、日本の正反対にある遠い国・ブラジルと、日本について書こうと思う。
「これ見て下さいよ」と、サンスポのクボ記者が入口で教えてくれた。少し色あせたカラー写真には、1989年9月のマスターズ杯に来日した南米のスーパースターたちが写っており、ジーコ(41)、そして後列にはファルカン・現日本代表監督(40)が、それぞれ笑顔を見せている。
「何でも、めったにか目にかかれない超スーパースターばかりで、年俸を合計すると、そんじょそこらの国の国家予算と同じだよ、なんて冗談言われましてね。写真撮るのも緊張しました」。競技場の弓場さんは、説明してくれた。当時の江戸川では、密かにすごい人たちが練習をしていたようだ。「あのころ? もちろん日本で仕事するなんて思ってもみなかったよ。ただ、これまで行ったどこの国より、なんだか日本が好きになったね」。ファルカンに聞くと、懐かしそうにそう笑った。
 写真撮影の日から5年、そのめったにお目にかかれない、ブラジルサッカー界のスター2人は、日本サッカーに大きな影響を与えることになった。かねてから不思議に思っていたことがある。ブラジルと日本がどうしてこんなに深く、密接に関わっているのかという疑問だ。なぜ疑問かと言うと、両国が地理、生活すべてにおいて正反対で、違いがあるように感じるからだ。
 一度でもブラジルに行ったことのある人なら、まず、地理的に日本の正反対にあるというその「遠さ」をご存じだと思う。わたしも12年前、まだ直行便がなかった頃、ブラジルへ長期間の旅行をした。なんたって30時間はかかるのだ。飛行機に乗っても、乗っても到着しない。「ブラジルは貧しいし、やっぱり日本はお金になる。稼ぐのには絶好のマーケットだよ」と言う人は多いが、何もあんなに遠い所から来なくたって、もっと近い所に稼げる場所はある。
 そして、地理だけではなく、すべてが正反対にあると言ってもいい。時差は12時間、国土は日本の実に23倍で、ついでに昼休みも、日本の2倍はゆうにある。日本では「ガイジン」と言うが、プラジルではいろいろな民族、人種が雑多に入り交じり、いわば全員が「ガイジン」のため、こういう表現はない。感情の表現が豊かなブラジル人に比べ、日本人は恥ずかしがり屋だ。日本の交通機関は、秒単位ですら狂いはないが、ブラジルのダイヤは、常に狂っているため、どれが正しい時間なのか見当がつかないし、道案内の間澤いに気付き、地図を買うと、今度は地図が間違っている。
 しかし、自分の経験から言うと、慣れてしまうと、これが無性に楽しくなってくる。まあいいか、となってしまう。「まあ、いいか病」に侵され、日本企業を退社してしまった人たちにもたくさん出会った。おもしろそうだな、と、アメリカではなくブ ラジルに足を踏み入れてしまったという、ファルカンの通訳・向笠直氏は「あまり違うから、余計にお互いに引きつけられるのかな」と言う。
 現在Jリーグにいるブラジル人は、選手、監督などを合わせて、外国選手最多で38入。これにJFLの選手や監督、スタッフを加えると、約70人にものぽる。ブラジル大使館によれば、これは過去史上最多の人数と累算されている。
 では、日本に来たブラジル人たちはどう思ったのか。昨年の鈴鹿GPの直前、ジーコと、F1のセナが浦安のホテルで対談した。この対談を取材しているのだが、欧州の優位社会でもあるF1で、ブラジル人のセナと、日本のホンダが手を組み、世界の項点に立った。スーパースターの初顔合わせといった華やかきはなく、ほとんどが、この両国の不思議な組み合わせや文化についての地味な話題だった。
 ジーコは「雨降って地固まる」が 好きなことわぎだと話し、「ブラジル人の発想力と、日本人の緻密さがあれば、世界のあらゆる分野で成功できる」と断言した。セナはとても楽しそうに「日本人とは人情が通じる。まさにその潤滑油のおかげで最高の仕事ができた。わたしたちは、両国の新しい友好のかけ橋になれると思うし、将来はそんな夢を実現したいね」と話していた。今となっては「友好のかけ橋になりたい」と言ったセナの言葉は、遭言になってしまったが、サッカーの存在で、かけ橋の基礎工事は進んでいる。
 1908年(明治41年)6月、第1回の移民約700人を乗せた「笠戸丸」が、ブラジルのサントス港に到着してから'86年、80万人以上とも言われる日系人が、ブラジルにはいる。まるで正反対に見えるミスマッチの成功は、日系人の努力によるところも大きい。そして、Jリーグの誕生で、両国に新たな協力関係が生まれつつある。
 来年は、ブラジルとの修好100周年にあたるそうだ。100周年の記念行事に、ブラジル大使館は友好の象徴にサッカーを選び、日本協会も申し入れを快諾。現在、代表同士の国際試合が検討されている。資料を見ていたら、'78年にガイゼル大統領が来日した際、「日本ブラジル青年少年交流協会が発足」とあった。
 そこには「協会の2本柱は、留学制度とサッカー交流で、少年同士が蹴ったポールは、やがて日伯(ブラジル)の2万キロの距離を埋めるだろう」と書かれている。もちろん民間レベルでもすでに、全国でサッカー教室や、留学制度を作り、2万キロを埋めて来た人たちもいる。
 何もかもうまく行くわけではないし、衝突や軋轢も多い。こんな時はいつも、アマゾンの合流地点マナウスを思い出す。真っ黒な河と、茶色に濁った河がここで合流するのだが、不思議なことに、水質も、生息する生物さえも全く違う双方の河は決して交わらず真っ二つに別れたまま、しかし、1本のアマゾン河を悠々と流れて行く。
 修好100周年を前に、日本代表の監督に初めて、ブラジル人であるファルカン監督が就任し、そして共にアジア大会を戦うというのも、単なる偶然ではないのかもしれない。

(週刊サッカーマガジン・'94.10号より再録)

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