■1460の軌跡

第4回:4年間をつなぐゴール


180秒で勝負した森島は「みんなの力で決めたゴール」と言った。
その「みんな」には4年前の仲間たちがいる。
2点目の中田英とともに、アタッカーの勝利でもあった。

    ◆僕らの日本代表

 わずか180秒にかけた、控え目な男の、精一杯の自己表現であった。
 日本が決勝トーナメントに進出するための1歩目を、小さな体で、しかし大きな歩幅で刻んだのは、身長168センチの森島寛晃(C大阪)だった。
 後半のキックオフからわずかに2タッチ目、難しい角度でボールに向かってスピードを殺さないように体を寄せて行く。体を反転させ、軸足の先端でシュートの方向を定め、右脚を振り抜く。今大会、初シュートがゴールになったとき、彼らしく、どうしていいのかわからないような困った顔で、雄叫びをあげ、とにかく全力疾走でベンチに向かって走り出した。

 これまでならば、入る確率は低い、もちろん森島でなかったとしても極めて難しいシュートだったはずだ。 
 16強に進むためには、何としても欲しかった先制点を、「モリシ」がつかんだとき、彼以上の興奮と歓声をあげながら喜んでいた選手たちがいたはずだ。
 画面を通して、ガッツポーズをして、冷やかしの言葉を彼に浴びせていたのではないだろうか。
 1本のシュートが、ゴールがどれほどの重みを持っていたのか、気が付いていなかったのは、おそらく本人だけではなかったか。

「モリシは僕らにとっても、日本代表ですから」
 日本代表が決まったころ、4年前の代表であった岡野雅行(神戸)は言った。
「何よりもうれしいことですし、4年前とは違う誇りみたいなものを持って、もちろん日本代表を、そしてモリシを応援したいと思う。僕らの分も、1分でも多くプレーをしてほしいし、1ゴールでも多く奪ってほしい。そう願っています」

 98年フランス大会、岡野をはじめ、名波 浩(磐田)、森島、服部年宏(磐田)、平野 孝(神戸)、中西永輔(市原)らは、同じ静岡の出身として、気の合う同年代の選手として、ともに自由な時間を過ごし、それ以上に目に見えることのなかった苦しい時間を、互いに心の中までを理解した上で共有していた。先発だった名波、中西と、出場機会のなかった服部、サブとしてわずかな時間に備えた平野、その中間の立場にいたのが、森島だった。

 今は岡野のチームメイトでもある城 彰二(当時横浜マリノス、現神戸)も、こんな話をしていた。
「フォワードに特に、という以上に、全員にゴールを狙ってほしいと思う。外しても、批判されても、関係ない。ああしていればよかったという後悔だけは、しないでもらいたいから」

 日本がグループリーグ(第1ラウンド)を突破するためのチュニジア戦で、森島と、岡野、城らをつないでいたのは、アタッカーのプライドだった。
 ワールドカップのピッチに立つことはできなかった分、森島のシュートには、彼らの気持ちがこもっていたのではないだろうか。

    ◆「みんな」の意味

 98年6月29日、フランスから成田空港に降り立った城が、税関からロビーに出たとき、駆け寄った男性が、何か吐き捨てるような言葉をかけ、頭にスポーツ飲料をかけた。選手たちは空港傍のホテルで行われる会見に向かう途中その話を聞き、顔をゆがめていた。

 FWの城は、日本代表がフランスで放ったシュート55本、得点1(中山雅史)の「負」のシンボルとされ、批判の渦中に押しやられた。しかし城は「ゴールできなきゃ、殺されてもおかしくないよ」と笑い、誰もがそのことへのやるせない気持ちを言葉にできずにいた。

 あの時、55本のシュートを放った日本代表の中でも、アタッカーたちで今回のピッチに立ったのは、森島、中田英寿、小野伸二、中山。森島のゴールには、だからこそ、単に個人のストーリーにはとどまらない、重みが存在していた。

「みんなでたたかっていることが、このいい結果につながったのだと思う」
 森島は会見でそう話していたが、彼が口にした「みんな」は、今のメンバーだけを指すものではないことは明らかだったように思う。

「タイミングよく飛び込むことができたと思う。得点に絡む仕事をしたかったし、チャンスを逃がしたくなかったです」

 個人的には、4年前のクロアチア戦を、常に頭のどこかに置いていたという。控え目な彼が、W杯についてだけは「何としても行きたい」と繰り返していた。30度を越える炎天下、しかも多湿のナントで迎えた出場時間(2戦目、0−1)は、チュニジア戦での気象条件と似ていた。あの時、先制点を奪われてから岡田武史監督に交代を告げられ、ピッチに飛び出して行ったが、準備は十分ではなかった、と後に後悔をしていた姿を思い出す。

 森島が、4年前の11分を3分で、しかも1本のシュートで取り返した鮮やかな逆転劇は、4年で存在した2つのチームをつなぐものだった。

「クロアチア戦のことは、何も覚えていないんです。(中略)後半アップをしていて、岡田さんに呼ばれて、相手もかなり疲れているから、先に入っている岡ちゃん(岡野雅行)と攻めて、飛び出せって指示を出されてました。それで審判に交代を告げたら、何とその時、シュケルの1点が入ってしまった……。(中略)日本に戻ってきて今考えるのは、ゴール前での丁寧さです。ゴール前の丁寧さは大事にしようと、これはJリーグで実感として心がけるようになったと思います。自分の弱さとか、足りないところ、それをJリーグをやりながら答えを出す以外、ないんですからね。それが見つかるまで、この悔しさは忘れたくないんです」(『6月の軌跡』文藝春秋 より抜粋)

 日本が16強に踏み出した力強い一歩が、どれほどの思いと、どれほどの時間を、「丁寧に」つないだものであったのか、森島は果たした仕事の価値を噛み締めているだろうか。

    ◆さりげないプライド

 市川大祐(清水)からのクロスボールが入ったとき、そこにはまだ誰もいなかった。

「見えていたのはいいスペースでした。キーパーと守備ラインのちょうど間をめがけてボールを入れれば、絶対に誰かが飛び込んで来てくれる。そう信じて蹴ったボールでした」

 中田英寿(パルマ)は、DF2人の間を分けるように、飛び込んで来た。ヘディングは、相手DFのかかと顔面がぶつかるほど正確なタイミングだったが、少しも臆することはなかった。

「イチ(市川)のボールが非常によかっただけです。あれは決めないといけないボールですし、何よりも、まだ逆転の可能性があったチュニジアに対して、あの1点で締められたことがよかったと思います」

 締められた、とは、「ゲーム・クローズ」、試合を決めたことを意味する。「ゲームを締めた」とは、ここまで4年、誰も知らなかったセリエAのペルージャに移籍し、修羅場を日常とし、いくつもの困難なゲームを忍耐でものにし、時に落としてきた選手が口にした、さり気ないプライドであったように思う。

「ゴールを奪うことは、最も手っ取り早い結果であり、人々から認知される方法だと思う」
 98年、セリエAデビュー戦となったユベントス戦で2ゴールを奪った後にそう聞いた。W杯の舞台を、自らの飛躍の場とした中田にとって、4年前への思いなどまったくなかった。

「17歳から代表でやってきた自分には世界との差はもうなくなっている、と確信する大会だったと思っている。パスもシュートも、負けていない、のではなくて、勝っているとオレは思っている」
 すでに、当時そう話していたのである。そして、それを形にした結果が、ヘディングだった。
 チュニジア戦後半の2点目は、U−17、ユース、五輪、そして代表と、すべての年代別代表を経験し、すべての年代別本大会でゴール奪った、ある意味での「偉業」を達成した瞬間でもあった。

 4年前と比較し、グループリーグ3試合に限っても、得点は1点はから5点になり、わずか20%だったゴール枠内へのシュート率は43%(今大会30本中13本)になった。
 アタッカー陣の、密かな、しかし輝かしい「勝利」だった。

(週刊サッカーマガジン・2002.7.3号(No.876、WウイークリーVol.7)より再掲)

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