■1460の軌跡

第5回(最終回):新しい「仕事」に向かって


彼らは確かにこの大会中、さまざまなものをつないでいた。
攻めと、守りを、ピッチとベンチを。4年という時間を。
敗北を経て4年後に向かう彼らの新しい「仕事」が、始まる。

    ◆生まれた「共感」

    「中田は帰ってしまった。川口は、どうして1勝もできなかったんですか、とストレートに聞かれて、ムッとしていた。名波は、収穫は、とか2002年はとか、話したくありません、誤解される、とだけ言った。井原は、フォワード批判はやめてほしい、的外れ以外の何ものでもない、と怒った。帰国して初めてわかったのは圧倒的な温度差だった。温度差を埋める方法は、ひとつしかない。相手が冷めるまで待つだけだ。この場合、待つとは選手にとって沈黙になるのではないか。ぼんやりそう考えた」(98年6月29日、代表解散の日の取材ノートから抜粋)

 流れていた空気は、4年前と違っていた。
 トルコに敗れ8強進出がならずに日本のワールドカップ(W杯)が終わった翌日、森町のメディアセンター(静岡県周智郡、通称JAMPS)に、代表選手全員と期間中おそらく最多となった報道陣が詰め掛けていた。ここは体育館なので客席がある。客席に座り、選手が囲まれているいくつもの「輪」を見つめながら、時々湧き起こる笑い声を聞きながら、4年前、日本代表が3敗で帰国し解散した、同じ日の光景を思い出した。

 成田空港傍のホテルで行われた会見に向かう直前、1得点への、負のシンボルとして城 彰二(現神戸)の頭に水がかけられ、選手はそれぞれにその話を聞いて、会見に臨んでいる。スタッフの中には、涙ぐんでいる者もいたし、怒りにただ沈黙する選手もいた。
 ひとつ明確だったのは、フランスでの1か月間と、観ていた者の3試合との間にできた、時間や雰囲気といった物理的なギャップと、結果に対しての観念的なギャップの存在であったように思えた。選手は、無論、結果だけを受け止め、言い訳など誰もしていない。よく言われるような、「頑張ったか、頑張らなかったか」、であるとか、「よくやったか、やらなかったか」、などといったひどく単純な二者択一で総括できるような3試合ではなかったはずである。
 その溝を言葉にするには早すぎたのだろう。選手のほとんどが選んだのは、「沈黙」であった。

 だからこそ、トルコ戦の翌日、もちろん達成度に対する、感想の個人差はあっても、ギャップへの温度差がないことになぜか安堵した。あのときの、どこか切ない空気とは違う、わずかであっても「共感」といったものがあるように思えた。
 選手はプレーに、結果に満足などするわけがないが、よく話し、笑い、メディアとの間に重い沈黙が流れるようなことは少なかった。
 2つのW杯が本当の意味でつながったのは、もしかするとこの日であったかもしれない。

 そして、16強進出という最大の使命とともに、何かと何かを「つなげる」といった任務こそが、中山雅史(磐田)、秋田 豊(鹿島)、森島寛晃(C大阪)、服部年宏(磐田)、川口能活(ポーツマス)、楢崎正剛(名古屋)、中田英寿(パルマ)、小野伸二(フェイエノールト)ら2度目のW杯代表となった彼らと市川大祐(清水)が、4年前の悔恨を埋めながら果たそうとしていたものだったのかもしれない。

 4年前の副将、山口素弘(名古屋)が、あのとき言ったことを思い出す。
「ボランチは車両の連結部なんだ。誰も車両に目はいっても、2つをつなぐ連結部の細かい所なんて気にしない。でも、なければ列車は動かない。ボランチってそういう仕事だし、仕事は別にポジションでも、サッカーでもなくって、みんなおんなじかもしれないね」

    ◆「FW」の抱擁

 中山、秋田、服部は、レギュラーとサブメンバーをつなぐ、強固なパイプとなっていたはずである。
 今回ピッチに立たなかったのは秋田と川口、そしてGK曽ケ端 準(鹿島)の3人だった。
 しかし、「幸せな1か月」と形容したように、秋田の仕事は、4年前、例えば初戦でバティステュータ(アルゼンチン)をマークしたことと同じだけの価値と重みを伴っていたのではないか。

「もし、あの一言がなかったらガチガチだったかもしれませんね」
 市川が試合を終え、緊張から解かれて笑いながら言った。
 秋田が、初戦のベルギー戦に先発した自分に「ピッチで4年間を見つけてこいよ、楽しんで」と、かけてくれた言葉の力を、振り返っていたのである。

 服部は、4年前、試合に出ることなく帰国したが、彼が手にしたのは「出るために」ではなく、「出ても出られなくても、自分ができることに違いはない」との結論だったと思う。大会前、「4年前は、一度も報道陣に質問されなかったんだ。でもそれがどうだとかいう話じゃなくて、今回もしそういうメンバーがいたら、自分はそこに目線を持って行けるだろうなと思っている。さりげなくね」と聞いたことがある。
 会見では、自分の話よりもなぜか「みんな」とか「チームは」といった主語を多く使っていたことに、彼自身は気が付いていただろうか。秋田、中山の年代と若い世代を、服部はその中間に立って、控え目に堅実に、まるでプレーの持ち味と同じにつないでいた。

 森島も「中山さんからサブの心得を伝授されまして」と笑っていたが、両者の立場を深く理解していたからこそ、チュニジア戦での1点を奪えたことは言うまでもなかった。
「いろいろな意味で感謝しています。言葉にするのは難しいのですが」

 日本代表にとって史上2点目、今大会最初の得点をあげた鈴木隆行(鹿島)は話していた。
 昨年のコンフェデレーションズカップで初出場を果たしてから、中山とは合宿のたびに同宿になり、FWとして、代表としてさまざまなものを自然と感じ取ったという。

 ベルギー戦の後半、「届くはずがないボールに、みんなの思いを乗せたゴール」と、アシストした小野が形容するほど難しいシュートを決めたとき、鈴木は中山の元にダッシュして行った。
 ベルギー戦のハーフタイム、中山は鈴木に笑って声をかけた。
「前半は、日本のベンチから遠いから、ゴール決めても走るのが嫌で決めなかったんだろう。じゃあ後半、待ってるから」
 鈴木も肩の力が抜けたのだろう。
 初めてのW杯で1点を奪ったFWと、2度目のW杯で初得点を奪ったFWの抱擁は、文字通り2つのW杯を、4年の月日を、歴史を融合させる瞬間だった。

 小野が、虫垂炎を押して出場できた理由は、彼の強靭さや薬の効用だけにあったのではない。
 彼もまた、自分の仕事が、何と何をつなぐものなのか、理解していた。
 中盤と前線を、守備と攻撃を。
 4年前の小野は、自らのシュートを決めること、11分の出場では何もできない、と振り返ること、高校生なら当たり前の「自我」をぶつけていた。今回は、まるで違う。

 「監督と選手の掛け橋になるのだ」と、中田はある種の覚悟をしていた。
 トルシエ監督と選手との間を強固につなぎ、少しでも細い、あるいは緩いと思う結び目があれば、それをすぐに補った。ピッチでも、代表での暮らしでも、すべてを胸にしまい。

 4年前に3敗し、勝ち点1をも奪うことができずに終わったメンバーが、ピッチにおいても、そうでなくとも、自分の達成感とは違う何かを選んでいたことに、大会期間中、気がついた。
 月並みではある。
 しかし、選手は「いい仕事をした」と言うしかない。2つのチームの「いい仕事」の詳細は、4年をかけて、また少しずつ明らかにしていければと思う。

「自分の任務は本当に重大です。終わった安堵感よりいまはそれを考えてます。4年前はまだ意識してなかったですが、今回は違う。今回の結果と反省すべきところを、個人としても、チームとしても忘れてはいけないと思いました」
 98年最年少代表、2002年最年少代表。市川が2006年に向かって3つの代表を「つないで」いく仕事は、これからである。

(週刊サッカーマガジン・2002.7.13号(No.879、WウイークリーVol.10)より再掲)

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