■1460の軌跡
第3回:「高校生」たちの4年後
ロシア戦の小野は無理な体制で稲本を受け止めると、しっかりと抱きしめた。
市川は「4年間を見つけてこい」という秋田の声を背にベルギー戦に立ち向かった。
高校生だった彼らのあどけない顔を思い出すことも、もう難しくなった。
小野伸二(フェイエノールト)は、稲本潤一(アーセナル)を力一杯抱き止めて、しばらく動かなかった。
ロシア戦後半6分(51分)、ゴールを決めた稲本がジャンプをして飛びついて来たため、小野は随分と無理な姿勢をしながら彼を抱き止めていたのだが、なかなか離れずに言葉にはならない声を上げている。ベルギー戦では、最後まで見せることのなかった笑顔も自然に浮かんでいる。無理な姿勢は、どこか苦し気で、彼ららしいユーモアさえ漂っていたが、その分、ピュアな気持ちを表しているように見えた。
グループリーグ(第1ラウンド)を勝ち抜く上では、何としても引き分け以上に持ち込まなくてはならないロシアとの一戦、日本は稲本の、今大会2得点目となる後半立ち上がりのゴールで息を吹き返した。
ロシアの速いパス回しと、中盤の豊富な攻撃パターンに対するためには、長時間のプレスをかけ続けなくてはならない。そうした中、左サイドを受け持った小野は、自我を投げ打ってでも、勝つことを選択し、その決意を試合にぶつけていた。
「アップの時はいいのですが、ホイッスルが鳴るとどうもコンディションが落ちてしまって……」
試合後そう笑って答えていたが、大会直前の虫垂炎と、その際の治療を思えば、そもそもベルギー戦のピッチに立っていることさえ奇跡的な状態だったはずである。
2試合を終え、疲れきった、しかどこか充実感の漂う表情には、最悪の状態でも、限界に挑んだ清清しさが漂っていた。
ユーモラスな恰好で全身の力を込めてしっかり抱きとめ止めていたのは、稲本のことであり、稲本が決めることで形にしたワールドカップ(W杯)の勝利というものであり、一瞬に凝縮されたこの4年ではなかったのだろうか。
フランス大会の経験を取り戻したいとか、当時の自分を懐かしむといった、安易な個人的感情ではなく、4年前には物理的に味わうことのできなかった苦闘や限界といったものの果てにある充実感である。無理な恰好で抱きとめていたのは、苦しさと、苦しさの分だけ増していく充実感だったと思う。
小野は勝ち点3をピッチで味わい、市川大祐(清水)もまた、初戦のベルギー戦にフル出場を果たし、勝ち点1を抱きとめた。
右と左の翼。
2人は4年前、高校生であった。
一人は卒業と同時に候補に選ばれ、プロでの生活に慣れるよりも早く、代表のユニホームでピッチに立ってしまった。わずか11分であるが、グループリーグ最終戦となったジャマイカとの試合で、W杯史上最年少の18歳でピッチに立った。
もう一人は、まだ車の免許もなく、クラブの練習には、父親に送り迎えをしてもらうような3年生だった。彼もまた、日本の代表史上最年少記録を塗り替えながら疾走したが、代表には選ばれなかった。
岡田武史・前日本代表監督はW杯フランス大会出場を決めたジョホールバルで「この種を蒔いたのは、加茂さんはじめ多くの監督さんたちで、自分はその種が育った後に刈り入れをしたに過ぎない」と話していた。
それならば、小野と市川という高校生は、いったん刈り入れの終わった4年前、勝ち点1も奪えなかったチームから、蒔かれていった「花の種」のようなものだったのかもしれない。自分たちの意志でもあり、チームの、サッカー界全体の願いでもある。
2002年のW杯で初の勝ち点3を奪った「歴史的な勝利」、ひとつの側面ならば、同時に、2人の高校生が4年をかけて強い風に押されながらも実現した「個人的勝利」の側面でもある。
2つの種は、4年でさまざまな場所で、さまざまな困難を経験し、やがて新しい土壌を見つけ、その上に花を咲かせた。岡田監督が最後に選んだ代表2人が高校生であった意味は、今大会、十分に理解されたはずだ。
2人自身が抱き続けた志の高さと、それを形にしたプレーによって。
ようやく形になって咲いた、見事な花の、力強い美しさによって。
「勝ち点3は素直にうれしい。すごくうれしいです。4年前はまだ高校生でした。卒業してすぐに、わけもわからないうちに代表に入って、緊張し過ぎていたと思う。これまでテレビで観て憧れていたような人たちが目の前にいて、遠慮している部分もたくさんありました。みなさんが自分を落ち着かせてくれたことにはとても感謝をしています。今大会でいえば、まだ満足できないですね。もっともっと堂々とプレーをしたいんです」
ロシア戦を終えた翌々日(6月11日)、小野は腹痛でチームを離れ再合流して以来、おそらくもっとも溌剌とした表情で取材に出席した。
ベルギー戦は、出場することが難しかったのではないか。病状など明らかにされなかったために憶測の域を出ないが、顔色はあれほどの試合にもかかわらず青ざめ、入院治療をするほどのことであればもちろんのこと、体力的にも苦しかったに違いない。しかし、それでも限界に挑んでいった理由は、4年前、高校生だった自分には何としても勝って、あのときの出場時間、11分を埋めたいという強い気持ちがあったからだったと思う。
98年の6月2日を思い出す。
小野は、2日が登録メンバー22人を最終決定する日だということを忘れていた、と真顔で言っていた。ここでもし落ちたとしても、自分のサッカーが下手だからではない、と思うようにしていたとも。
今思えば、「高校生」にとって、あれが精一杯の抵抗の形だったのかもしれない。起きていたことはあまりにも重く、あまりにも苦しいものであり、向き合うなどまだ出来なかったとしても当り前のことだった。
ロシア戦後の会見で、すでに2得点をあげていた稲本について、「羨ましい」と話した。さまざまな思いを表す言葉である。もし得点を奪うことが羨ましいというのなら、今大会、徹底的にこだわって欲しいと思うことがある。
4年前、かけられた言葉を、心のどこかほんの片隅ででも、忘れるほどのウエイトでいいから覚えていて欲しいと思う。ジャマイカ戦で、小野は後半、名波 浩(磐田)と交代した。名波は、「本当にいろいろな思いがめぐったけれど、たった一つだけ言ったと思う。『伸二、1点取って来い!』と」。
11分の間に、小野は股抜きから惜しいコースに飛んだシュートを実際に放っている。あまりに単純過ぎて2人には「何を感傷的に馬鹿みたいなことを」と、笑われるかもしれないが、この大会で1点取って、2つのチームを「心で」つないで欲しい。
小野と1対1で話すチャンスは大会期間中にはないだろうが、ゴール奪ったら、それを聞きたい。
そしてもう一つ。あのとき画鋲で壁に留めただけと笑っていた、試合後に交換したジャマイカのウイットモアのユニホームはどうしたのか、そして今大会で交換したユニホームはどうするのか。
4年前、精一杯背伸びをしながら責任に耐えて、自己犠牲を学んでいた「少年」は、もうどこにもいないのだと、ベルギー戦を終えた市川を見ていて思った。
すべての年代の代表に選ばれ、いつでもピッチに立つことができなかったキャリアを補ってあまりある、ベルギー戦での90分ではなかったか。
「4年間を見つけて来いよ」
4年前、さり気なく気を遣い続けてくれた秋田 豊(鹿島)が、ベルギー戦のピッチに向かう直前かけてくれたこの一言に胸が一杯になった、と話していた。
あのとき、「修学旅行」だと批判した者たちへの反論を、何よりも高校3年生を、自分たちと同じ「日本代表」だと扱ってくれたメンバーたちに伝える心から感謝を、市川は4年かけて表現した。
小野も、出場さえ危ぶまれる中、11分を奪い返して余りある大会に変えてしまった。驚くべきは、話すことでではなくプレーで、実に「堂々と」それをやり遂げたことである。
うれしいことに、高校生だった2人のあどけない顔を思い出すことさえ、もう難しくなってしまった。
(週刊サッカーマガジン・2002.6.26号(No.874、WウイークリーVol.5)より再掲)
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