◆私のサッカー手帳

第7回:海外に雄飛するグラウンドの戦士たち


三浦知良──中田英寿らと続いてきた海外移籍が、
W杯が終了した今、さらに大きなうねりとなっている。
新しい「第3世代」とも呼へる彼らは、日本を出ることによって
一体何を得て、何を持ち帰ってくれるのだろうか。

    地殻変動が起こっている

 日本がベスト16に進出したW杯が終了して以来、日本サッカー界では、Jリーグを10年余り牽引し続けた川淵三郎・前チェアマンが日本サッカー協会会長となって新体制を築き、日本代表監督・ジーコ氏(ブラジル)の就任会見も行われ、慌ただしく人事すべてが引き継がれた。
 サッカー界にとってはもちろんだが、自分の取材にとっても、大きな区切りとなったように思う。この連載のタイトルは「私のサッカー手帳」であったが、実際には、手帳と呼ぶにはあまりにも分厚く、しかも整理されてはいない大きなノートがサッカー取材用のものである。1997年、日本代表が初めてのW杯出場をかけて過酷なアジア予選をスタートさせてから5年と半年が経過している。

 それまでどこにあるのかさえ定かではなかったウズベキスタン、カザフスタンといった中央アジアの国々、「女性は人前でTシャツを著ないでください」と旅行代理店から注意を促されて出発した中東諸国を、代表とともに回りながら、サッカーのおかげで未知だった世界を知ることになった。
 96年に日韓W杯の開催が決定されてから、98年のフランス大会と2002年はセットになっていたようなものであるから、本当に長い期間、代表を追ってこうしたアジア諸国、欧州はもちろん、アフリカ、南米まで遠征をしていたことに、いまさらながら驚く。

 今回、代表には入らなかったが、フランス大会から代表をリードし続けてきた名波 浩(磐田、ミッドフィルダー)が以前、「ファンのみなさんやマスコミは、きっとフランスでの3敗の話しかしないと思う。けれども、自分にとっては、あそこにたどり着くまでの練習、ホーム&アウエーで戦ったアジア予選、すべてがW杯だった」と話していた意味が、今は以前よりは深いところで理鮮できるように思う。
 それは、この5年間の長い道のりの中で、選手が技術的にもメンタルのうえでも大きな変化を遂げる様子を、言ってみればサッカーや日本のスポーツ界に起きた地殻変動とも言えるような変化に、立ち会える幸運に恵まれたからである。
「氷山の一角」といった表現がスポーツほど当てはまる世界もないのではないか。試合の下に積み重ねられた時間や労力の重みといったものを、名波はあのとき口にしていたのである。

 選手をもっとも大きく変えたのは、一体どういうもので、選手がどう変わったのかを少しでも読者のみなさんに伝えられれば、W杯後のJリーグ、日本代表への国心や楽しみを消さずにサッカーを観てもらえるのではないか。

「知らない場所、知らない人、まったく知らない環境に、飛び込むことによって、目分を磨いていきたい」
 7日、こんな言葉とともに、鈴木隆行(鹿島、フォワード)が、ベルギーに出発した。銀色に染めた髪は派手なものだが、彼の考えや、サッカーへの取り組みは、「未知の場所で自分を鍛え上げたい」と口にするような、地に足をしっかりとつけたものである。
「ゲンク」は名門であり、ベルギー・リーグ優勝経験チームでもある。昔は炭鉱を主力産業とする地域でもあり、労働者たちがクラブを愛し、支えてきた。現在は同国No.1クラブとしで組織も整備されているが、それでも都会的な華やかさや洗練された雰囲気とは違う魅力を持っている。単身でのブラジル留学からJ2、鹿島と這い上がってきた鈴木には、ふさわしいのかもしれない。

 6月4日、日本代表がペスト16に入る大きな1歩を踏み出したベルギー戦、鈴木はその右足で、とてつもなく困難なシュートをゴールに結びつけた。あと0コンマ何秒か判断が遅れたならば、あと1センチでも足を伸ばす位置がずれていれば、同点に追いつくことも、ベルギーと引き分けることも、ロシア戦で勝ち点を上げることさえ不可能だったのではないか。それほどの価値を持って放たれたシュートが、日本代表の行方とともに、自身の将来を決めていたことは不思議な縁であるし、それからわずか1か月後、相手国のチームに移籍するとは、本人もまったく考えてはいなかっただろう。
 鈴木と、何よりもチーム全員の気持ちが乗り移ったような執念のゴールが、ベルギー関係者の目に止まり、W杯期間中から鹿島に獲得のオファーが出されていた。

「うれしいというよりも、あのシュートが決まっていなかったらと思ったら恐ろしくなった」
 ベルギー戦後の会見では、こんな風に話していたが、仕事への畏れや向上心を短く、飾り気のない言葉で表現しているのがよくわかった。次に向上心を表現する方法が、拶籍だったということは、だからこそ、よく理解できた。
 フランス大会が終わって、日本のサッカー界は、中田英寿(パルマ、セリエAのクラブ、昨シーズンは10位)という「革命」によって大きく変わっていった。道を切り拓いて険しい山の上流で放った一滴が、続いた選手たちの力とともに「流れ」を生み、小川になって、川になったのだと、鈴木の出発は物語っていたはずである。

    充実期に入った海外進出

 昨年、海外向けの英語論文の依頼*を受けた際、以前読んだ書籍を見つけて引用した。司馬遼太郎氏とドナルド・キーン氏の対談『世界のなかの日本』(92年、中央公論社刊)に収められた「世界の会員へ」と題した章における、司馬氏の発言である。

    「井上靖さんが亡くなる一年半ほど前に会いましたが、そのとき井上さんが珍しく、『日本人も』──『日本人も』と言ったのか、『日本の国も』とおっしゃったのか──『そろそろ世界の組人員にならなければいけませんね』と言われました。(中略)井上さんの語った片言隻句を大きく解釈することは危険ですが、私なりに解釈するとしたら、そういえば、江戸時代はもとより、明治以後も世界の一員だったことはない。つまり、特別会員もしくは準会員もしくは会員見習であったとしても、ちゃんとした会員であったことはない。会員には義務と責任がありますから、そろそろそれを持たなければいけないという時代ですね」

 一見、何のつながりも持たないかのような司馬遼太郎氏の対談と、サッカーは、じつは、私の「手帳」の中においては、深くつながっている。スポーツ界では、「世界の組合員」が誕生し始めたのは、ここ数年ではないか。この対談が上梓された92年、Jリーグは翌年の開幕に向けて本格的に走り始め、選手たちの「世界組合」へ何とか入ろうとする熱意と努力は、止まることがなかった。国内でトップの座につくよりも、海外への多籍を選択する。
 98年秋、中田は誰も知らなかったセリエA、ペルージャヘの移籍を決意する。

「それが特別なことだとは一度も考えなかった。まして、移籍が失敗するなんて考えたこともなかった」
 昨年、セリエAで3つ目となるクラブ、パルマで取材をするチャンスに恵まれ、「ここまで成功できると4年前に確信していたか」と聞いた際、中田がこんな風に答えていた。おそらく、メディアのほうが、「世界舞台へ」とか「日本人初」であるとか、身構えているのであって、選手のほうはとうの昔から、彼のような自然体を学んでいたのかもしれない。中田は、サッカーにおいて、井上靖氏の指摘した新しい世代の、世界の会員ではなかったか。

 97年、98年フランス大会のアジア予選がスタートしてからの5年は、「政界の会員」が続々誕生した目覚ましい進歩とともにあったのではないかと思う。
 三浦知良(神戸)が、単身でのブラジル留学からプロにまで這い上がり、フランス大会代表に漏れたあとも、さらに困難だと思われたクロアチアリーグ、ザグレブに移籍したのが草創期だとすれば、現在は充実期に当たるだろう。

「ホーム&アウエー」と言われる、サッカー独特の試合形式(自国と相手国で2試合を行う方法)は、そのまま、海外というアウエーを生き抜く強さを日本の選手たちに与えていた。
 先陣を切った中田、翌年には名波がベネチアへ(磐田から)、昨年はイングランドのプレミアリーグの強豪・アーセナルに稲本潤一(G大阪から)、スペイン、イングランドと2か国でプレーをした西澤明訓(C大敵から)、アルゼンチンに渡高原直泰(磐田からボカジュニアーズ)、オランダへは小野伸二(浦和からフェイエノールト)、GKとしては初めての海外移籍となった川口能活(横浜FMからポーツマス、プレミアの下にある一部リーグ)と、海外でのプレーを実現した遣手が次々と誕生していった。

 そうして、8月から9月にかけて、欧州の新たなシーズンがまた始まるころを迎えた。W杯期間中、自らのプレーの達成感に限れば決して完全燃焼とは言えないであろう中田は、パルマで2シーズン日を迎える。小野も、オランダリーグに定着しつつあるその高度なテクニックを持って、ビッグクラブからもオファーを受けられるほどの実力と知名度を手にしている。稲本は、リーグ戦に1試合も出場できなかった昨年の飢餓感を大舞台にぶつけるように2得点を奪って、新たな契約を果たしてみせた(プレミアリーグ、フルハムヘ移籍)。西澤、高原のFW陣はJリーグの所属クラブに戻ったが、チャンスは依然残されている。苦しいシーズン、W杯を送った川口も、このシーズンにすべてをかけていくはずだ。

 世界会員への厳しいテストに挑戦するニューフェースも生まれた。
 中村俊輔(横浜FM)は、左足を利き脚とする独特な「レフティ」で、ラストパス、フリーキックなど正確で高度なテクニックから「ファンタジスタ」(イタリア語で魅惑的で華麗なプレーをする選手の敬称)とも呼ばれる。W杯代表には選ばれなかったが、選んだのは、ふて腐れて落ち込んでいくことではなくて、日本を飛び出すことだった。鈴木と1週間違いの7月下旬、中村は、ローマから南、イタリアのブーツのちょうど親指の付け根辺りに位置する若いクラブ、レッジーナへと出発した。背番号は、浜FMと同じ10番である。
 中村は、自らのプレースタイルやりリーグの傾向から、スペインへの移籍を熱望していたという。しかし、もっとも熱心なオファーが、世界一華やかで、同時に肉体的(フィジカル)な面でのタフさが要求されるセリエAからだったことで、悩んだ部分もある。「明日の朝までに結論を」と、渡された白紙の答案用紙に、自ら「移籍」と書いで提出したわけである。

 かねてから、中田がこんな話を繰り返していたことを思い出す。98年にペルージャを選択した際、その場所さえ誰も知らず、クラブの実力は過小評価され、さらに本人の可能性についても否定的な見方がはとんどだった。もちろん、開幕となった強豪で名門のユベントス戦で2得点を奪うまでの、ほんの短い時間ですべては消えてしまったのだが。

「移籍というと、みんなすぐに有名なビッグクラブを希望するけれど、ヨーロッパならヨーロッパで、リーグのある国ならすべてが、欧州の主要大会でつながっている。だからこそ、どんなに難しいことであるか承知のうえで、まずは日本を出ることだ。そこから這い上がっていけばいいのだから」

 決して華やかではないが、地域に根ざし、愛される強豪を選んだ鈴木、自らの流儀とは多少違ったとしても、一晩で考え、悩み抜いて決断した中村の頭の片隅には、中田が繰り返していた言葉があったのかもしれないし、三浦−中田らと続いてきた海外移籍組の、新しい第3世代とも呼べるものかもしれない。

 まずは日本を出るといった果敢なチャレンジは、一体どんな結果をもたらすのだろう。
 それまで行ったことのない土地で、見知らぬ文化や習慣を受け入れ、チンプンカンプンであるはずの言葉を覚えなくてはならない。ある程度恵まれているとはいえ、人間関係の複雑さや、人種差別も味わうだろう。こうしてアウエーを克服しながらチームプレーを体現する彼らのチャレンジは、見聞きするほど楽なものではない。プレーやテクニックだけでは超えることのできない壁もあるからだ。小野は、オランダでのプレーにあたって、代理人を通じてある希望を出している。
「グラウンドでの通訳は付けない。日常生活でも最小限で」。本来ならば、グラウンドでの通訳を最初に必要とするものだ。しかし小野は、ピッチという仕事場では、ポールと自らの努力のみで信頼を得ようと努力したという。
 生活では、積極的に語学学校に通い、多くのチームメイトとも打ち解けていった。中盤のなかでも、多くのポジションをこなすように監督からも指示されたが、戸惑うどころか、「どんな位置でもチャレンジをして自分の可能性を追求したい」と、壁を破っていった。

 チームの関係者に、「オノは、ボールを使って言葉を交わす」と言われたことがある。「サッカーを笑って楽しみたい」といつも話す選手である。パスを交わし、常に笑顔でポールを扱って、仲間だけでなく、地元のファン、メディア、子どもたちとコミュニケーションを交わしていった。
 日本選手としては初めて、欧州の重要なカップ戦(UEFAカップ)を制し、新しいシーズンでもチームの中心的な役割を担う。

 昨シーズンは試合(リーグ戦)に出ることができなかった稲本は、W杯で2点を奪う活躍から、今季はアーセナルと同じロンドンにホームを置くフルハムに移籍を果たした。「飢えている」と、ゲームへの意欲を最初に口にした。アーセナルでは、文化や言葉といった周囲との関係に戸惑うことはなかったと話していた。それ以上に、これまでにはなかった、サッカーのみに集中する一人の時間がむしろ新鮮だったと。

 昨シーズンは西澤(昨年12月帰国)と2人がプレミアに所属していたが、リーグ戦への出場はならなかった。周囲は、「使われない」ことに対して、ただネガティブな要素をあげていくだけであるが、当人たちは、想像をはるかに超える困難と、同時にそれを楽しむ余裕を常に携えてサッカーに向かう。おそらく今季は、プレミアリーグで活躍する初の日本人選手が誕生するだろう。

    世界の会員になった

 井上氏、司馬氏が意図した「世界の会員」とは、必ずしも同じではないだろう。しかし、サッカーは現在FIFA(国際サッカー連盟)に加盟する国・地域だけでも220にも及び、国連などを上向る、世界でもっとも大きな会員集団でもある。こうした世界において、未知の環境に飛び込み、そこで生活を築いていくことは、私に劇的な変化、それは日本人が苦手としてきたアウエーの精神を教えてくれるものであった。
 電器プラグから電話、交通手段や送信方法など、すべでが違う環境の中で、日本と同じように、当たり前に仕事をすることも、彼らを取材することで教えられたものだった。彼らの起こした変革は、日本代表をW杯でのべスト16に押し上げただけではなく、日本そのものに、今後もさまざまな成果をもたらすのではないか。

 サッカー界も、ひとつの大きな目標は超えた。しかし、06年ドイツ大会に出場するためには、世界中の大陸予選でもっとも過酷と言われるアジア予選を勝ち抜かなくてはならない。気の早いファンは、ドイツで、と希望を口にするが、フランス大会と同じように、今回は44か国で、またも中央アジアや中東で戦い、勝ち残れるかの保証はまったくない。

「海外でプレーすること、海外で生活することを特別だと思ったことは一度もなかった。困難があったとしても、それが自分の仕事だから」
 中田の言葉は、世界会員への入会資格なのかもしれない。


*関連記事:
「スポーツが変える日本人と、日本への世界観 ──日本のアスリートが、日本車を抜く日がやってくる
(The Japan Foundation Newsletter Vol.29/No.1、国際交流基金)

「婦人公論」1114、2002.9.7号より再録)

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