「スポーツが変える日本人と、日本への世界観」
──日本のアスリートが、日本車を抜く日がやってくる


    世界の会員へ

    「井上靖さんが亡くなる一年ほど前に会いましたが、そのとき井上さんが珍しく、「日本人も」──「日本人も」といったのか、「日本の国も」とおっしゃったのか──「そろそろ世界の組合員にならなければいけませんね」と言われました。「組合員」というのは、いい表現ですね。むろん、労働組合ではなく、銭湯組合とか貴金属商の組合とか質屋さんの組合とかの組合員です。
     日本は、江戸時代は鎖国です。明治のときは、自分たちは弱いんだ、西欧のものを学んでいる最中でとても一人前のつき合いはできない、と思っていました。ところが、日露戦争に勝ってからはばかに以丈高になって、世界の5つの強い国の一つだと思い始める。(中略)ともかく江戸時代からこんにちにいたるまで、世界の組合員であったことは一度もない。その間、国際連盟を脱退します。そして高度成長期を過ぎますと、今度はどしゃ降りのように日本製品を世界中にまきました。(中略)
     井上さんの語った片言隻句を大きく解釈することは危険ですが、私なりに解釈するとしたら、そういえば江戸時代はもとより、明治以後も世界の一員だったことはない。つまり、特別会員もしくは準会員もしくは会員見習であったとしても、ちゃんとした会員であったことはない。会員には義務と責任がありますから、そろそろそれを持たなければいけないという時代ですね。
    東ドイツと西ドイツの間の壁が崩れたときは、強烈な感動を覚えました。これは、私たちが生きている間に見た歴史上の最大の事件です。毛沢東中国の成立以上に、大きな事件です。それを自分のこととして考えずに、テレビのなかのものとしてしか思っていないというのは、やっぱり同業組合の組合員というか会員でないからでしょう。その意識がまだずっとあるのではないですか」

     
    (『世界のなかの日本』/司馬遼太郎、ドナルド・キ−ン(中央公論社、1992年)より引用)

 この一文は、亡くなった作家の司馬遼太郎氏と、米国人で日本語学の権威として知られるドナルド・キーン氏が対談で行った『世界のなかの日本』の最終章に収められた「世界の会員へ」と題したテーマにおける、司馬氏の話である。
 鎖国時代、オランダから受けた文化的な影響から鎖国そのものが現代に及ぼした影響、明治時代の庶民の自立心といったさまざまな日本文化論から展開される両氏の知己に富んだ話には、単に語学や文化論に留まらないものが深く潜んでおり、何かの折につけ繰り返して読む興味深い本である。

 スポーツライターのレポートが、メジャーリーグで数々の記録を更新しながらリーディングヒッターとして疾走し続けるイチロー(シアトル)の打撃フォームや、あるいは強肩と鍛えぬかれた外野守備でも、野茂英雄投手(レッドソックス)の力強いトルネード投法と鮮やかなフォークボールのキレでも、サッカーの中田英寿(パルマ)の頑健なフィジカルや一瞬の隙をついて流れて行く正確なスルーパスでもなく、司馬遼太郎とドナルド・キーンの、しかも鎖国時代や明治時代について討論した対談で始まるなんて……そんな風に思う方もいるだろう。
 しかし、実際のところ、このリポートにおいて明らかにしたいのは、海外で活躍する日本選手たちの数字や記録、技術のすばらしさといった「アスリートとしての」活躍ぶりには留まらないのである。私がここでみなさんに伝えておきたいのは、彼らが、21世紀という新時代において、日本社会にもたらした新たな概念や哲学であり、それが与える絶大な影響力についてである。

 国民的な人気を博している小泉純一郎首は、就任以来「構造改革」を景気対策のための切り札のひとつとして強力に打ち出しているが、効果は一向に見えない。株価は急降下を続け史上最低の最安値を記録する有様だ。
 日本の社会において、何にしても真の「責任問題」を追及することは極めて困難を伴うものである。給料が大幅にカットされるわけでも、責任を追求され、リストラに合うわけでもない、いわば「痛み」など何も伴うことのない政治家たちが国民に対して「痛みを伴う」「血を流す」と求める矛盾は、日本が依然旧構造の中にあることを皮肉なほど鮮明に映し出しているのではないか。

 一方、こうした強い閉塞感を抱く時代にあって、プロ、アマチュアを含めたアスリートたちの、過去には例を見ない、実に軽やかな動きと発想は、日本社会を照らす一筋の光といってもいい存在であることは間違いない。
 今や土曜、日曜の夜中は、サッカーのイタリアの一部リーグ「セリエA」を衛星放送で見ることがスポーツファンの間に定着したばかりか、2001年秋には、セリエAの視聴料に加え、サッカーファンたちは「プレミア(イングランド)リーグ」「オランダリーグ」、さらには日本の反対側、「アルゼンチンリーグ」に至るまで視聴の契約料を追加しなくてはならなくなってしまった。

 週末、世界中のリーグで活躍する日本選手を応援してヘトヘトになっている間もなく、週が明けると今度はメジャーで野茂やイチローや新庄を見るために朝っぱらから衛星放送にチャンネルを合わせなくてはならない。こうした世界のスポーツを「観戦はしご」するような事態は、ここ2、3年で日本に誕生した新たな習慣とも言えるし、中にはテレビでは飽き足らず現地での観戦を望むファンも多く、観戦を主目的としたツアーは、旅行会社においてこれまでにない有力な目玉商品のひとつになったと言われる。
 株価は暴落し、出口の見えない不景気は一向に回復する兆しがない。これにより凶悪な事件、犯罪も増加の傾向にあるという。
 しかし、かつてないほどの数で、あるいは分野の多岐にわたって世界中に散らばった日本のアスリートたちは、日本人が今失っている「自信」や「誇り」といったものを、私たちに思い出させてくれている。

「もしかしたら、こんな時代でもサバイバルできるかもしれない」
「世界の中で、語学の上手い下手だけではなくて、本当の意味で認知されることが可能かもしれない」
 こういった希望をもたらしてくれる存在になり得るのではないか。
「世界の組合員に」と題した対談を長く引用した訳はそこにある。
 司馬氏の指摘を拡大することは控えるべきだが、井上靖氏と司馬氏が思い描いた「世界の組合」はおそらく、同業者としての産業界であり、知識層だった。
 しかし今、この「世界組合」のひとつに「スポーツ」が堂々と軒を連ね、日本選手たちがもしかすると、組合の役職を務めかねないほどになっていることを、私はスポーツライターとして明らかにしたいと考えている。

 スポーツ界で日本人が世界と戦うとすれば、それは4年に一度のオリンピックであり、各競技の世界選手権であり、特に五輪は、日本人にとってはメダル数を競う、まるで国体の延長戦上にあるかのような大会でもある。
 一方、野茂投手が日本のプロ野球を置き去りにしてから、少しずつ、しかしとてつもない力強さを保ちながら進んで来た、スポーツ選手たちによる「構造改革」はすでに、痛みや血の代わりに、喜びや可能性をもってスポーツ界に浸透し、若い世代にも年輩にも「新たなる世界観」を提示している。
 もはや、世界を舞台に戦うなどといった表現そのものが古臭くさえ感じるほど、実際のルールとは別に彼らの心には「境界線」といった感覚がなくなっているはずだ。語学でも何でも日本人が「世界の組合員」になるにあたって長年抱いてきた「コンプレックス」の一部を彼らが一掃した爽快感は、時代の少ない財産なのかもしれない。

    オリジナル、による劣等感の一掃

「英語はわかりますか」と聞かれることさえなく、陸上ハンマー投げの日本記録保持者・室伏広治(日本のスポーツメーカー、ミズノに勤務する)は笑顔で、流暢な英語による会見をスタートさせていた。
 2001年の夏、カナダのエドモントンで行われた陸上の世界選手権で、室伏は日本の投擲選手として史上初の快挙となる銀メダルを獲得した。身長187センチ、体重は懸命な増量でもようやく96キロ。平均体重が120キロになろうかという大男たちの間に入ると、一段と小柄で気の毒にさえなる。

 しかし室伏は、日本人の圧倒的に不利といわれたフィジカルの分野でのハンディをむしろメリットに転じて、銀メダルを手にしたのだ。テクニックの妙である。
 彼は、コンパクトに4回転半をしてからハンマーを投じる。微調整を繰り返す難しい競技にあって、世界選手権では一人、82メートル台を3回マーク(投擲は6回)する安定性を世界に示した。
 同時に、プロ、アマを問わず、選んで外に出なければ厳しい環境に、スポーツにおける「世界基準」になかなか適応できない弱点をも克服したといえよう。欧米ではトップ選手にとって常識的な生活の場である、高額賞金を伴った「グランプリサーキット」を単身で転戦。所属する会社からのバックアップを受けられる良い環境を背景に、自ら、交渉や煩雑な手続き、さらに殺到する外国人ジャーナリストとのやり取り、合同記者会見、といった毎日の中で、生きた英語を身にまとった。

「照れくさい面は今もあります。でも、自分は英語を勉強しているわけではなくて、ハンマーで世界を相手にしているんですから、別に間違っていたって構わないと思う」
 シャイな日本の若者への、海外メディアからの評価は極めて高い。ある部分で言えば、メジャーの野球での知名度では獲得できない「世界的な知名度」を彼はすでに手にしているし、元日本記録保持者の父・重信氏が得た「アジアの鉄人」という称号を、「世界の」に転じてしまいそうな勢いである。

「優勝者に心からの敬意を表したい。自分にとって銀メダルは、満足しないで上を目指せという意味であり、きょうの結果に誇りを持っている」
 一度もよどむことのない、室伏の流暢な英語を外国のメディアと聞きながら、1986年、マラソンの瀬古利彦氏が、当時の賞金として世界最高額だったシカゴマラソンを、世界中の一流ランナーたちに圧勝して制した時の記者会見のことを思い出した。
 日本語の通訳さえ用意されておらず、私がひどい英語で通訳をするハメとなった。
 そんな時代が懐かしく感じられるほど、室伏の英語は、何より「世界」に軸足を置いたその堂々とした姿勢が自然に見えた。
 オリジナルの高度なテクニックをもって世界の流れに乗った彼の姿は、アマチュアながらも、一つのシンボルになり得るものかもしれない。

 コンプレックスを一掃するのが「オリジナル」である点は、どの競技にも共通する。
 野茂投手が初めてドジャースに移籍をした当時さえ、メディアにとって重要な関心事だったのは彼のピッチャーとしての能力と同じように、生活環境に慣れてやっていけるのか、または、語学がまったくできなくて大丈夫なのか、本当に通用するのか、といたネガティブな要素ではなかっただろうか。
 彼の言葉は今も印象的だ。
「心配しないでください。僕は語学留学に行くわけではありませんから」

 痛烈な皮肉と確固たる自信を秘めたコメントだったが、一方では新しい時代の到来を予感させるものでもあった。つまり、不必要なコンプレックスなど気にするものではなく、彼には流暢な英語の代わりに、誰もが腰を引く強力なフォークと、それを可能にする「トルネード」とあだ名された、独特の「オリジナル」を持っていたのだから。
 その前の年、日米野球で来ていた米国の関係者に、そのフォームではメジャーでも通用しないだろう、そういう忠告を受けたことがあるそうだ。
「いや、変えるつもりはありません」
 野茂はそう答えたというから、自らのオリジナルにかけた意志の強さは、筋金入りだったようだ。

 イチローにも、やはり似たようなエピソードがある。
 春のキャンプで、米国のパワーヒットとはまったく違う、いわゆる「流し打ち」のスタイルで打撃練習を連続する姿に、首脳陣は、あれではメジャーの強力な投手たちを打ち込めない、と業を煮やした。
 しかしイチローもまた野茂と同様だった。
「心配しなくても大丈夫です。調整しているだけですから」
 このコメントにはさすがにカチンと来た、と、後に監督が笑い話として米国のテレビで披露していたのを見たが、このやりとりにも、彼の感覚の中に(もちろんトップ選手は誰でも非常に謙虚だが)すでに「メジャーで自分の力を試す」とか「世界で戦う」といった古めかしい概念が一切無かったことを示している。

 生活環境を案じる代わりに振り子打法、ではすでにないが、自らの打撃を磨き、語学勉強以上に、守備でのコミュニケーションを重要視し、ファンにコメントでアピールするよりも走塁で意志やガッツといったものを強烈に伝達する。自らのオリジナルに対する揺ぎ無い自信と、相手を受け入れる度量がそこに存在する。
「ジャパン・オリジナル」といっても過言ではない、テクニカルでの独自性は、かつて、日本車が大量に輸出された当時の輝きに重なるのだろうか。

 米国の多くのメディアに、「日本の第一次輸出産業は車に変わって、いまや野球選手だ」といった記事や評論も踊る。
 しかし決定的な差異もある。
 産業的な技術は必ず良くも悪くも、互いの模倣によって変革を遂げるのを常とするが、イチローの打撃は誰も真似ができない。野茂のトルネードもあのフォークも誰も投げることができない。おそらく、どんな手段を取ったとしても、それは不可能であろう。
 野球に限らないが、こうした技のオリジナルは、「国際スポーツ特許研究センター」とでも呼べるような施設で、ほかの産業特許と同じように、個々に登録、保護されて行くべきではないか、と思うことがよくある。
「イチローの打法」「野茂のトルネード」「室伏の4回転半」、少し前で、欧州からはあからさまな妨害を受けたがスキーノルディックの「V字ジャンプ」といったように。

 肉体的、経験の有無よるスポーツのコンプレックスをむしろ逆手に取って、これらを克服する日本選手たちの活躍は、弱点や不利ばかりを強調する日本の教育界にも一石を投じるものとなるかもしれない。
 アナハイムの長谷川滋利投手は、入団の会見を英語で行い喝采を浴びた。
 イチローと同じくこの春、阪神タイガースからニューヨークメッツへと移籍した新庄剛外野手はなぜか、日本人が最も苦手としてきたはずの「ボディ・ランゲージ」によって喜怒哀楽を表現し、チームメートにも、ファンにも深く愛されている。

 特許とも呼ぶべき、自らの信念を表すテクニックと、語学を基本としたコミニケーション、これらをしなやかに駆使しながら溶け込んでいく日本のメジャーリーガーたちに比べると、米国のメディアは相変わらず硬直した、古めかしいワンパターンに終始しているように見える。
 日本選手を称えようとイベントを設ければ、それは中国古来の習慣であったり、京都、富士山、和服の女性を、彼らに絡めようとする。
 何かあればすぐに「ライジング・サン」の韻と組み合わせて表現するのも、いい加減、日本では飽きられているのだが。

    アウェー、という新しい概念の誕生

 司馬氏とキーン氏の対談の中で展開されていた論旨のひとつである、「国連を脱退して以降、日本は世界組合の会員にはなれなかった」という指摘は、実はスポーツの世界において非常に興味深いものだ。
 世界中で行われているスポーツで、文字通り、もっとも多くの会員を擁する「世界組合」は主に2つある。というよりも、国連などを含めても、もっとも加盟国の多い団体は、スポーツに2つあり、ひとつは220を上回る国と地域を加盟国とする「国際陸上競技連盟」(国際陸連、通称IAAF)であり、双璧をなすのが「国際サッカー連盟」(通称FIFA)だ。国連などが、約180か国ほどだから、いかに規模の大きい「組合」が、スポーツでは実現可能かわかるはずだ。

 さて、メジャーはメジャーで十分に完結する。日本の選手たちがこぞって自らの力にチャレンジする場として選ぶには、アメリカこそ最高峰であり、日本のプロ野球界から見た、ある意味での限定された世界観をそこに見ることもできる。
 しかし、サッカーはもともとそうした「世界観」とは違った場所で、発展して来た競技でもある。
 野球では、長い遠征を「ロード」と呼んでいる。ロードという表現の中には、敵が潜むとか、環境が大きく変化するとか、そういった不安定な要素はあまり潜んでいないし、野球では「ホームチーム」(試合の主催側)に対して、ロードでやってきたチームを「ビジター」と称するわけだから、ある程度は「お客さん」扱いもしようという、親切心もあるかもしれない。
 ところがこれがサッカーになると、ホームとビジターは、「ホーム&アウェー」となり、アウェーという物理的を移動を行った途端、世界はまさに激変するといっていい。

 ピッチ(芝生の部分)から、使用されるボールの革質は、南米と欧州のそれではまるで違うし、気候も、時差も大きな違いがある場所で、それこそ、世界組合の頂点を目指すW杯予選を戦わなくてはならないわけだ。
 審判の判定も、揺らぎかねないほどの大応援、野球では決してあり得ないが、時には死者さえ出してしまうほどの大騒動も、スタジアムでは頻繁に起こる。

 すべては、アウェーが生み出す、不安定な要素ばかりである。
 しかしこれほど強固な世界組合もない。
 世界中どこであっても同じルールが適用される。しかも17条だけという極めてシンプルで単純さゆえに、余計に地域や国家間の差異を強調し、人々を熱狂の渦に巻き込む。
「日本人の世界観」の中には、司馬氏たちが指摘したような「鎖国」の影響が、スポーツの分野にいたるまで実は根強く残っていたのかもしれない。10年前、日本はその資金力にものを言わせて、もっぱら海外のビッグスターやクラブを、日本に招待して「ビジター」としてもてなしを重視した。
 結果、トッププレーヤーの片鱗に触れることはできたとしても、試合そのものは常にイベント化され、他方で日本選手は海外を戦い抜く、本当の「アウェー」からは取り残されていった。

 かつて中国のサッカーで、ユース年代の強化を行おうとした際、中国は金銭的にもスタジアムなど環境的にもまだ整備が完全ではないので、選手何人かをまとめて、世界トップのブラジルに派遣してしまおうという計画が発表されたことがある。しかも2年間、行きっぱなしというのだ。
 極端な例ではあったが、異環境、異文化をスポーツにおいて克服していかねばならないとする観点で、「アウェー」の発想である。

 選手に限った話ではない。日本人は「アウェー」が苦手である。海外に出かけるときには、常に常備食を持ち歩き、言ってみれば「ホーム」を常に携えて行こうとする。イタリア人は海外旅行のために、国際空港でパスタやオリーブオイルを買ったりしない。ドイツ人も、じゃがいもやソーセージを鞄に詰めたりはしない。もっともアメリカ人なら、世界中どこでも「ホーム」と同じだろう、マクドナルドもスターバックスも、今やどこにでもあるから。

 いずれにしても、こうした日本人の弱さに対して大きなインパクトをもたらしたのが、サッカー人気であり、日本のプロ選手たちが示した「ホーム&アウェー」という試合形式であり、同時に概念ではなかったかと思う。
 長い間、組合最高の、4年一度の大会議でもあるW杯は、日本組合にとって無関係のものであり、例えばイタリアの一部プロリーグ、セリエAは世界組合の頂点に位置する分科会であったが、そこでのプレーは、日本から見ればはるか遠くの「観戦すべきショー」のひとつに過ぎなかった。
 中田英寿という、強い意志の塊が、粘土質のイタリアのピッチを踏みしめるまで。

 98年9月、中田はイタリアの中部、唯一海のない州であるウンブリア地方の小さな町、ペルージャへ移籍した。日本人の誰一人として知らなかった町で起きたことは、さまざまな点で奇跡とも呼べるものだった。宣伝など何もしていないのに、観光客が押し寄せ、セリエの弱小チームのグッズが飛ぶように売れ、誰もが週末、安くない料金を支払って衛星放送を購入するようになった。
 一番の奇跡は、中田自身のサッカーにあった。肉体的には圧倒的な不利を背負い、テクニカルでも未熟だ、イタリア語は?、多分に政治的な要素で左右されるサッカークラブの中で溶け込めるのか、極東の、そのまた外れからやってきたような日本人に、イタリアサッカーの何がわかる……と、ネガティブな未来ばかりを並べた、日本とイタリアのメディアを嘲笑うかのように、中田はデビュー戦でチャンピオンチームのユベントスから2ゴールを奪った。

 世界最高峰と言われたリーグに標したこの一歩目は、結果的に現在の日本サッカー界にとってもっとも有効な登頂ルートを導くものとなった。
 98年、初めて世界組合の、準会員くらいとしてW杯に初出場。以後、中田がリードしながら、多くの選手が海外でのプレーを成功させ、2001年、つまり日韓W杯を前年に控えた現在、彼らが足を伸ばしたピッチは、イタリアに留まらず、スペイン、イングランド、オランダ、アルゼンチン、と想像もしなかったような広がりを見せ、間違いなく今後も新たな場所に彼らは挑戦し続けるはずだ。

 サッカーでは年に、それもレベルが高くなればなるほど、さまざまな国で多くのアウェーを戦わねばならない。習慣、環境、文化、言葉、食事、天候、すべてがまるで違う場所であっても選手は自分のパフォーマンスを決して落とすことなく、敢然と相手に立ち向かわなければならない厳しさは、日本社会が長いこと持たなかった「概念」ではなかったか、と、ここ数年のプロサッカーの隆盛を取材しながら感じている。
 彼らは、海外旅行ひとつとってもわかるような日本人の中に潜む、一種の「弱さ」とは対極の、世界そのものをその活躍の舞台とする、いわば世界組合の「正会員」たる価値観を、ボールを蹴ることによって堂々と実現し、私たちに示しているのだ。

 何年か前、辛口で知られるイタリアのスポーツ新聞に、中田について長いレポートが掲載されたことがある。移籍して丸3年が経過した現在、すべての会見をイタリア語だけで行うし、テレビにも通訳なしで出演する。公の場でのスピーチもする。イタリア料理をこよなく愛し、ファッションにも精通する。「中田はイタリア人である」という記事は、非常に印象的な文章で終わっていた。
「日本と日本人に対して抱くイメージを彼が代表するのだろうか。それならば、彼には「侍」の魂が宿っているように見える。物静かさや思慮深さ、口数は少ないが、プレーは常に忍耐と力強さを表現し、決して弱々しい態度を取らない。彼が、私たちが抱く日本人へのイメージを作ることは間違いない。少なくても、日本車よりは大きなインパクトと崇高さをもって」

 世界組合の正会員になるためには、広がりとたくましい世界観を持つこと、そしてそれ以前に、自分がどこに根を張っているのかというアイデンティティを強く持たねばならないのである。
 構造改革の可能性は、特殊法人の解体よりもむしろ、スポーツ選手によってなされる新しい価値観の提示のほうが、より大きなインパクトや好影響を、日本人にもたらすのではないだろうか。
 同じ朝と夜に、イチローのヒットの軌跡と、激しいファールにも決して足元を揺るがせない中田の肉体的な強さを見ながら、困難な時代を生き抜く勇気こそ、彼らが無意識のうちに示した「会員資格」かもしれない、そう考えた。

The Japan Foundation Newsletter・Vol.29/No.1
[2001.10、国際交流基金]に寄稿(掲載時は英文))

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