◆私のサッカー手帳

第6回:ジーコの代表監督就任


楽しみなのは、ジーコの手腕よりも選手の反応だ。
どちらかの熱意や意欲だけではまったく仕事にならないのは明白であり、
トルシエ前監督との4年間とはすべてが違う新監督との仕事を、
W杯を経験した彼らがどう検察し、どうエンジョイするかだ。

    浸透するサッカーの情報

 リサイクル資源回収日、W杯以来、恐ろしい数で溜め込んでいた雑誌、スポーツ新聞、一般紙を紐で括って運んでいった。束にして、7つもある。
 スポーツ新聞社を退社してフリーランスになってから、もう5年が過ぎているが、人気、勢い、実力のバロメーターともいえるスポーツ新聞の駅売りは、今でも複数購入している。一般紙、英字紙も3〜4紙は必ず読んでいるので、新聞の山束を持った姿はどう見ても尋常ではない。企業のトップももちろん、新聞は英字紙も含めて、全紙を読まなくてはならないだろう。しかし、私は、もしかすると、日本で一番、駅で新聞を買っている一人かもしれない。何の自慢になるのかは不明であるが。

 利用する駅の馴染みの売店では、おばさんが、「今日はどこどこがスクープみたいだね」などと、アドバイスまでしてくれるので肋かる。大学が3つあることもあり、雑誌の売れ行きなどは著者の関心の高さとともに全体の実数に対しても、かなり正確なものだ。おばさんは、私のインタビュー記事が載っている雑誌を前に置いてくれたりもするので、つい飲み物まで購入してしまう。無駄遭いの「罠」である。

 日頃、現場で仕事をともにしている記者たちの記事を読むのは楽しい。例えば、前日同じ場所で同じ取材をしていたとする。しかしできあがった記事の視点、感性は違う。現場以外、何も起こらないのがスポーツであり、こうした短い時間や限られた空間で同時に仕事をした場合には、勉強になる。
 新聞社に入社したころ、「教わることなど何も期待しではいけない。テキストは毎日、駅に掃いて捨てるほど売ってるぞ」と言われた。あらゆる記者の原稿を読むことは、今では習慣の一部、重要なトレーニングのひとつになっている。かつては「女性にスポーツ新聞を読んでもらう」、いわば新規読者層の開拓に各新聞社とも懸命だった時代もある。女性の多くがアンケートに「インクで手が汚れる」と答えていた。今では、印刷技術の進歩によってインクで手が汚れることはまずないはずだが、女性の購読比率はどうなったのだろう、といつも気になる。

 さて、古新聞回収の日である。
 W杯以降、それがたとえ一時的なものだとしても、女性のサッカーヘの関心は高くなったと感じられる。私が何度にも分けて運んでいった7つの束をまじまじと見ながら、同じ町内なのだろうか、同じように新聞を持ってきた主婦2人が笑う。
「あ、サッカーにはまったんですね」
 うーん、答えに困る質問だ。はまる、というか、無理やりはめられた、というか、はまるどころか転落したというか……、どうにもこうにも答えようがない。仕方がないので笑っていると、また聞かれる。
「私もW杯が終わってから、気になる見出しや話題があるとスポーツ新聞も買うんですよ。子どもや旦那がびっくりするけれど、サッカーは知らなくたって、話題を知っていると、結構知ったかぶりができますもんね」
「そうそう、選手の話でもついていけるようになったものね。私は、中田はもちろんなんだけど、ほら、あの明神っていう子、なんか地味だけど真面目そうでがんばってて好きだわ。ルックスもなかなかよ。選手では誰が好きですか?」
 うーん、明神智和(柏)とは、昨日、あるパーティーで久々に話したばかりだ。「体より、神経が疲れていたんですね」と、初の大舞台の経験を率直に話していた。
 うーん、誰が好きか、これもまた答えに困る。好きというか仕事です、と言えば早いのだが、それを言ってしまうと、彼女たちの話に水を差すようで申し訳ない。
「ええ、夫が大好きなものでほとんど買うんですよ。嫌ですねえ、こんな量になっているなんて」と、定番通りの嘘を言う。

 それにしても、中田英寿(パルマ)や小野伸二(フェイエノールト)の名前が出るならわかる。しかし、ポジション的には、どちらかといえば「玄人受け」する明神とは、いかに情報が浸透し、興味を持たれていたかがわかろうというものだ。しかし、たかがリサイクルの日、本当に驚いたのは、ここからだった。
 彼女たちが話題にし始めたのは、私がたまたま一番上に載せて束ねていた新聞の見出しについてであったからだ。
「日本代表監督、ジーコ決定」とある。
 ジーコってどうなのかしら、トルシエってフランス人でしょう、ブラジル人に代わるといろいろと戸惑うんじゃないのかしら、選手としては凄いんでしょうけれど、これまで監督の経験ってないんだもの、わからないわよね。

 日本代表選手に、試合の結果に、興味が行くのはわかるが、監督がここまで話題になっていることには驚いた。トルシエ監督の前は? と聞けば、98年フランスW杯を率いた岡田武史監督、「オカちゃん」であることは誰もが覚えているだろう。しかし、それより以前になると、記憶もかなり薄れるはずだ。
「有名な選手ですよね、ジーコは。鹿島でもずっと監督はやってないけれど」。彼女たちの話に、こんな相づちを打つのが精一杯である。
「それって、テクニカル・ディレクターっていうんですよね。監督は絶対にやらないってずっと言っていたらしいわよねえ、やっばりお金なのかしらねえ。腕はどうなのかしら」
 テクニカル・ディレクター……。そのうち、私の知らない最新情報まで飛び出してきそうなので、思わず「お先に」と引いてしまったが、関心の高さはもちろんうれしい。うれしいが、怖い気もする。

 中田選手がペルージャに移籍し、サッカーと生活の関わりの探さをいろいろな面で教えられたと思う。中でも気に入っていたのは、ペルージャのホームスタジアム、レナトクーリで年間シートを持っているお婆さんの存在だった。記者席の近くだったこともあり、よく見かけた。杖をついているが、髪を染め、とてもおしゃれで素敵なおばあちゃんは、いつも試合15分前にゆっくりやって来て、穏やかな笑顔を周囲に浮かべて席に座る。
 しかし、ホイッスルと同時に変貌してしまうのだ。ペルージャの選手がオフサイドと言われようものなら、副審のフラッグ代わりに杖をかざして、「オフサイドだとお!」と立ち上がってしまう。これを観るたぴ、私はいつものけぞって笑っていたのだが、しかし、イタリアでサッカーファンの女性はみな、自分のチームが「オフサイド」と言われて黙ってはいない。あの激しさ、熱狂ぶりをお見せしたいが、リサイクルの日、私は、日本の女性たちもああやってサッカーを観戦する日が、そう遠くないような気がして、自分の記事が載った新聞、雑誌を置いてきた。

    代表監督だけが味わえる

 代表の監督──かくも厳しい仕事は見当たらない。W杯に限れば、世界に32人である。サッカーが時にはその国の政治や経済をも動かすとしたら、監督は国家元首以上にに影響力を持った存在である。他国の国籍を持つ者が、その国の権力の最高峰に座れることを思うと(サッカーでは代表監督の国籍は問われない)、いかにユニークで、突出した存在であるかがわかる。
 W杯には、監督だけを撮影し続ける「監督カメラ」があり、これが大会中は大受けとなる。一喜一憂する姿、ベンチを蹴り上げ、ペットボトルを投げ捨て、審判につかみかかる。広いピッチでは届くはずのない指示を大声で出し、選手を激励し、ゴールの瞬間はスキップする。98年フランス大会のときには、「素」の状態をあからさまに世界中に放送されることに嫌悪感を抱き、「放映中止を」と、何人かの監督が抗議をしたことさえある。観ていると、確かに笑う場面も多いが、「今、血圧は?」「決勝までに倒れてしまうんじゃないか」と思うことのほうが多い。岡田武史元代表監督と、元名古屋監督で、現在は英国の名門、アーセナルを率いるベンゲル監督が、98年に対談をした際、監督業、とりわけ代表監督について話していたのが興味深い。

 岡田氏がプレッシャーとのさまざまな戦いを話すと、ベンゲル氏は「でもそれがやめられないんだね」と笑った。
「まるで、どんなものよりも強烈な麻薬のようなものだ。あの厳しさ、緊張、それを大きく上回る喜びを味わうと、抜け出せない」
 今W杯で、最年長監督でもあったバラグアイのマルディーニ監督(国籍はイタリア)が数々の名誉をすでに手にしながら、70歳でまたも「32人」に入ったことは、ベンゲル、岡田両氏が、「監督業は麻薬だから」と言ったことを思い出させるものだった。

 トルシエ監督も、言葉は違うか似たようなことを話している。
「サッカーで起きることは、どれも予想できないし、論理的解説ができないものだ。しかし、唯一、監督だけが、これを予想し、自分の読み通りになったときには、一瞬天才でないかと思える。もちろん逆も真なりだが」
 98年から日本代表を4年問にわたって率いてきたトルシエ監督は、フランスリーグで選手(ディフェンダー)の経験はある。しかし30歳を前にして、指導者での成功を目指して引退。以後、代表監督としてのキャリアのすべては南アフリカ(98年W杯出場)、ナイジェリアなどアフリカでのものだった。若手の指導に定評があったことから日本に招かれ、4年のうちに若い世代とともに、ユース大会準優勝から五輪、今大会と階段を上がってチームを作りあげている。
 W杯アジア予選のような「火事場」がなかったことから、4年の時問を有効に使いながら世代交代、選手起用を行った点は評価できるだろう。16強入りの結果も公約を果たすものだった。一方で、そこで止まった成績の要因として重要なのは、監督のパーソナリティであり、哲学文化などさまざまな差異であったと思う。監督は最後の最後まで、日本文化とフランス文化の違いがサッカーに及ぼすもの、サッカー後進国である日本という図式を変えずに、終わったのではないか。
 契約、チームの運営、さまざまな点でこうしたことを土台とする衝突はあった。

    “軋轢”からの脱却

 忘れられないエピソードが2つある。
 契約4年目に入る際、つまり昨年6月のコンフェデレーションズ杯でFIFA(フィファ、国際サッカー連盟)主催大会で初めての決勝に進出し、準優勝を果たしたあとのことだ。監督は、日本サッカー協会との契約「お互いがこの契約を破棄することができる」、いってみればクビにもできる、とした条目の削除を強く要望し、W杯までもう任せてくれ、と主張した。当然の権利であるが、協会も会見のキャンセルなど、監督の気紛れに対する「足かせ」は外したくなかった。

 切迫したやり取りの中、「フランスでは」と監督が切り出した。
「フランスでは、結婚して4年を迎えると、妻の貞淑を認めて財産分与の手続きをする。我々(協会と監督)も夫婦として新たに歩み出す時期だ」
 日本サッカー協会の代表だった、木之本興三氏も負けてはいなかった。
「日本では財産なんて分ける前に、結婚して何年経っても、おかあちゃんからおこづかいもらってる亭主がほとんどだ。そういう信頼関係もあるんだ」
 監督はよく意味がわからなかったそうだが、結局、ユーモアと、フランス語ならエスプリの利いた対応で、監督が16強入りを果たす土台が築かれた。

 もうひとつは、アフリカから始まって日本で5か国目となる監督業に同行しているドミニク夫人が、コンフェデレーションズ杯決勝で母国フランスと対戦した直後、フランスのルメール監督に抱きつき、号泣したシーンだった。フランス語のわかる関係者に後に聞いたところでは、日本との文化の違いに、どれほどつらい思いをしてここまで来たかを訴えていたのだという。

 もちろん代表監督が、日本人であってもなくても「壁」はあるが、プライべートな面での差異を埋めるには、時問もかかる。かといって、2006年のドイツ大会に出場するためには、もっとも過酷な大陸予選ともいえる、「アジア予選」を勝ち抜かなくてはならない。そのためには、さまざまな点でのキャリア、戦略、外国監督ならではの思い切りや人脈が必要になる。これらの点を勘案し日本サッカー協会が選んだのは、「もっとも日本の選手を理解している」(協会)ジーコ、である。現役時代は、「白いペレ」「神様」と言われたほどのスーパースターである。そして、これまでただの一度も監督を経験していないにもかかわらず、ビッグネームである。
 選手の中には、「あの人のプレーをさんざんまねしたのに」と、憧れの人が監督となる驚きを言う者もいる。03年、ドーハの悲劇と呼ばれるアメリカW杯のアジア予選を率いたオフト(オランダ)以来、ジーコとかつて代表でプレーをしていたファルカン(ブラジル)、トルシエ(フランス)と日本の代表史上4人目の外国人監督となる。

 本名は、アルツール・アントネス・コインブラ。リオデジャネイロ出身で、78年から3度W杯に出場。セリエA(ウディネーゼ)でプレーをしたこともある。Jリーグの発足から現投に復帰してプレーをし、96年からテクニカル・ディレクターとして鹿島をまとめてきた。
 選手としてのあまりにも輝かしいキャリアと相違して、これまで一切の監督オファ−を断ってきた。ペレや多くの名選手がそうであろように、選手としてのキャリアに傷をつけたくないという思いもあれば、選手として経験したストレス、プレッシャーを二度と味わいたくないとする考えもある。

 トルシエ監督との共通点は、たったひとつ。その年のW杯優勝国から就任した点だけだ。予選があること、すでに91年から11年にもわたって日本に滞在してきたこと、トルシエ監督のような「実験」なしに、選手を知っでいること、サッカーヘのコンセプト、選手、監督として積んだキャリアの違い、すべてが正反対に位置する監督となった。

 あまり知られていないが、ジーコはJリーグが始まる以前の91年、まだ鹿島が住友金属だった時代に来日している。ロッカーもなく、シャワーも水、ピッチには芝がなかった。しかも世界中の名門クラブからのプレーヤー、指導者としてのオファーを蹴って来日し、誰もが「何かあるんじゃないか」と疑ったが、結局あったのは、サッカーヘの情熱、日本への愛情だけだった。

「今でも不思議なのは、どうして今回のオファーを受けたかなんだ」
「サッカーファンのみなさんの関心を大事にするためにも、監督人事は迅速がいい」と自ら陣頭指揮を取った、日本サッカー協会・川淵三郎新会長は、“結婚”の成立にどこか不思議そうな表情を見せていた。ブラジルでも「七不思議」と言われた今回の監督就任の背景には、彼が49歳になったことがあるのではないかと、新会長は指摘し、私自身、そんな風に思う。これが男として人生をかける鼓後の戦いだと選んだ道なら、名誉に傷をつけでも、富を減らしても、自らの小さな功名心など抜きに監督業にかけるだろう。
 経験がない、と指摘する声もあるが、「そのことでもし不満があれば、いつクビにしてもらっても構わない」と、話している。

 まだ何も始まっていないが、2006年ではなく、2005年の予選までの時間は2年半である。楽しみなのは、ジーコの手腕よりも選手の反応である。どちらかの熱意や意欲だけではまったく仕事にならないのは明白で、これまでの4年とはすべてが違う監督との仕事を、W杯を経験した彼らがどう模索し、どうエンジョイするかが大きい。

 49歳で選んだ初監督と、世界の舞台でリ・スタートを切る代表の組み合わせは、そう悪くはないと思っている。今度のリサイクル収集では、そう言ってみようか。

「婦人公論」1113、2002.8.22号より再録)

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