◆私のサッカー手帳

第5回:「緑」の収支決算


いつから日本人は、スポーツで使う芝(スポーツターフ)に対して
これほど神経質になり、高いレベルを求めるようになったのか。
Jリーグが始まってわずか10年で、それが当たり前になったことに驚く。

    各国の選手からの賞賛

「収支決算」には、色がある。当然のことながら、黒があり、赤がある。1か月にわたってアジアで初めて行われたサッカーの日韓W杯が終了し、連日、両国組織委員会、FIFA(国際サッカー連盟)によって、準備期間から含めればじつに6年にもわたる長期間の収支決算が発表されている。
 現在の加盟国・地域がすでに220にもおよぶ、世界でもっとも大きな団体FIFAが、今後のW杯を運営していくうえで、「共同開催」はきわめて重要な試金石となるものである。肥大化が進む中、近隣にある複数の国がスタジアムや交通の部分で協力をし、運営すれば、スタジアムも新たにつくる必要はなく、まだW杯開催を実現していないアフリカの国々にとっては、こうした方法がどういった収支となるかは、2006年(ドイツ大会)以降の招致を考えるうえで、重要である。

 わずか2度目の出場だった日本は16強に進み、5大会連続6回の出場を果たしてきたアジアのリーダーである韓国は、ポルトガル、イタリア、スペインといった伝統国であり優勝候補であったヨーロッパ諸国を退けて、4強に進んだ。急激な進歩、それ以上に「ホームの利」の力を予想しなかった欧州勢は、驚きを隠せず、プライドも少なからず傷ついたのかもしれない。自ら、ほかのどんな大会とも区別をし、「世界最高の大会」と言い続けてきたW杯を「2002年は最高の大会ではなかった」(FIFA・ブラッター会長)などと言い始めたからだ。言ってみれば自己批判である。

 さまざまな「収支決算」のうち、金銭は重要な部分を占めている。詳細を見ていけば赤字が出た部分もあり、黒字が出た部分もある。競技力のうえでは、開催国日韓も大きな成果を収めた。
 今回に限っては、もう1色の「収支」が存在するように思う。緑色の収支決算である。
 決勝を争ったブラジルとドイツの選手が、口にしていたのは、「緑の収支決算」、芝生の完成度についてである。芝は、予算や収入と違ってここで「精算」されないぶん、大きな貯金となり、貯金を有効に使っていくための運用プランが重要になる。

「本当に素晴らしいものだったと思う。現在は、ヨーロッパでも、特に南米でも、各クラブや国の財政事情からも、選手の立場を尊重したピッチ(サッカー場で芝の部分)作りに対して、どうしてもコス卜を省いている。その結果、ピッチが荒れ、選手のプレーには思い切りや、想像のつかない意外性が消え、最後にゲームそのもののクオリティが下がってしまう。芝について、日本、韓国ともすばらしい仕事をしたと思う」
 ブラジルのキャプテンを務めたカフー(ASローマ)は、決勝を戦ったあと、大会を振り返る会見の中でそう話していた。

 期間中、その風貌から「ゴリラ」などとあだ名され、迫力あふれるセービングで決勝までに対戦した7か国を圧倒し続けていたドイツのゴールキーパー(GK)カーン(バイエルン・ミュンヘン)も言った。ヤシン賞受賞者であり、大会最高のGKの言葉は重い。
「宮崎でスタートしたキャンプから含めて、かつてドイツに学んだという日本のサッカーを取り巻く環境には驚いた。芝はどこもすばらしく、GKとして、運に左右されるようなことは一度もなかったからだ。韓国のスタジアムも状態は非常に良かった。単にテクニカル面にとどまらない、両国のサッカーヘの深い造詣を見ることができた1か月だった」

 カフーの指摘した経済困難は、クラブが選手に対しで給料を払えず、解雇にいたっているアルゼンチンの危機的状況を見れば明白なように、深刻な事態にあろ。
 給料の未払いによって選手が流出することは、現実的な損失である。しかし衛星放送で画面を見でいればわかるように、かつては日本にとって手本であったような国々で、ピッチが悲惨な状態になっていることは、将来への負の材料をひきずるという点で、さらに大きな損失でもある。ピッチの大きな不良は、選手の怪我を招き、プレーそのもののクオリティを大きく落とすことにもつながりかねない。

    皮肉な台詞を吐かれた10年前

 Jリーグがスタートした93年当時、「日本よりもはるかに貧しい多くの国に、美しいピッチがあるにもかかわらず、経済大国である日本にはそれがない」と、芝とスポーツ、サッカーと芝といった密接な関係を持たなかった日本が皮肉を言われていた時代があったことなど、嘘のようだ。
 つい十数年前までは、国内で、ぞれもトヨタ杯(南米と欧州のクラブ世界一決定戦)など世界中が注目する大きなイベントでさえも、冬枯れしているピッチを隠して「厚化粧」するために、芝の上に緑色の塗料をまいていた国で、ピッチが絶賛されることもまた嘘のようである。

 この10年で急激な進歩を遂げたのは、もちろん還手のテクニックや体格である。しかしもうひとつ、サッカー発展の両輪として加速しながら発展しているのが、ピッチコンディションである。Jクラブが増え、15年前に比べ現在では、天然芝を敷いたスタジアムの数が大幅に伸びた。
 それは、W杯出場2大会目、4試合目にして勝ち点をもぎ取った日本代表の勢いにも似ている。2−2でW杯史上初めて勝ち点を手にした競技場、埼玉スタジアムは、昨年11月、日本代表がイタリアとの親善試合でこけら落としをした。サッカー専用スタジアム(6万3,700人収容)としては、日本最大であることは、ピッチそのプライドを反映させるということもある。
 まだ根付いていない芝が、ワンプレーごとにはがれたり、めくれたりした様子は世界に伝えられ、「この芝では全面張り替えもある」と、W杯までの厳しい猶予を与えられていた競持場でもある。

 あのとき驚かされたのは、ピッチ全面で100か所近くめくれた芝の状態の悪さより別のことだった。もちろん、あの状態がプレーにいい状況をもたらすとは思えなかったが、個人的にはW杯や世界のサッカーに対する日本人の反応が過度のようにも思えた。信じがたい状態のピッチでの大きなイベントは、世界中いつでも行われているからだ。それより、いつから日本人は、スポーツで使う芝(スポーツターフ)に対してこれはど神経質になり、高いレベルを求めるようになったのか、そちらの驚きだった。10年で、それが当たり前になったことへの驚きだった。

    2種類のスパイク

 じつはスパイク1足にしても、芝のもたらす影響がきわめて大きい。
 サッカーのスパイクには2種類ある。ひとつは天候の良い、芝も短く、状態も良いピッチで行う試合で履く、ごく普通の「固定式」と言われるもの。スパイクピンは靴底と一体となった、軽く、扱いやすいものだ。ただし、雨が降ったり、南米のように長い(平均すると4センチ以上といわれる)芝の場合は、スリップして競技に影響が出る。
 そこでもうひとつのタイプを使用する。こちらは、スパイクのピンにさちに、ネジのように小さいピンを取り付けて長めにし、芝をかみやすくする「取り替え」と呼ばれるものだ。ただしこちらは、スパィクが重く90分走り続ければ疲労への影響はあるし、扱いは難しい。しかし雨、雪、ピッチの状態が悪ければ、選手は、少しでもリスクを減らすためにこちらを選ぶ。日本選手のほとんどが芝の状態が非常にいい中でプレーをしてきたために固定式を招いており、重馬場で取り替えを履いてプレーすることには慣れていない。しかし、中田英寿(パルマ)らが移籍し、続いた選手たちもまた欧州の条件の悪いピッチで戦うために取り替えを履くようになっている。

 芝が短いとボールが速く流れ、パス攻撃やスピードを主体とするサッカーには有利で、南米のように個人技を主体とする場合には、長い芝のほうがよいとされる。速攻が主体のチームなら、ホームで芝に適度な水を撒いてから試合を行うことさえある。芝は長さも含めて、重要な勝因であり、敗因になる。
 6目4日、ベルギー戦が行われた際、芝は27ミリにされた。日本選手にとっても、欧州の選手にとっても、長くもなく、短くもなく、ハンディもメリットもない、きわめて公平な芝として。ただ昨年は、種を蒔いてからの期間が短かったので、整備不良というわけではなかった。

「芝の状態はもちろん一番注意します。ただ、実際にピッチに立ってプレーをすれば、短くてボールスピードが速く感じられることもあるし、反対もあります。何ミリ、ということではなくで、足元の感覚が大切だと思う」
 日本のゴールを守り続けた楢崎正剛(名古屋)に試合後、聞いた。ボールの素材も年々進歩している。ボールにハイテクの防水加工が施してあり、現在ではどれほどの雨でも、かつてのように水を含んで重くなるようなことはない。しかし、一方では濡れて表面に水が走るために、非常に滑るという。W杯でも多くのGKが「ワックスがけしたボール」と話していたのは印象的だ。本来なら芝の目が荒かったり、砂利が出てボールに傷がつき、それがかえってスリップを止めてくれる「作用」をもたらすそうだ。良すぎる芝の弊害は、思わぬところにあるようだ。

    「ザ・ピッチ」

 イングランドのデビッド・ベッカムの人気は、サッカーのスーパースターでありながら、どこか気さくなところだと記者たちは言う。そうした性格を物語るひとつの場所を、昨年偶然にも取材したことがある。
 ロンドン郊外にビッシャムアベーという小さな町がある。そこには、イギリスの五輪強化センターがあり、宿泊施設とともに、一般の人々も使えるトレーニングセンターもある。敷地内は車道以外すべて芝でじつに気持ちの良い場所である。
 ここにはサッカーのイングランドの代表だけが使う「ザ・ピッチ」と呼ばれる最高のグラウンドがある。どんなことがあっても、使用できるのは代表選手のみ。合宿以外使用されないが、特別の排水、暖房システムで管理されている。日頃も、代表以外、ただ足を入れることさえも禁じられる、まさに「世界最高の特別なピッチ」である。
 ベッカムはここに練習場があることから、代表の合宿がない場合でもロンドンだけではなく、このセンターのスポーツクラブにも頻繁に足を運び、レストランや、天気のいい日には芝の上で、市民選手たちとランチを広げ愉しんでいるのだと聞いた。

 イングランドは現在も、世界の中でも芝の存在を重視する国のひとつだ。無論サッカーの発祥の地であり、サッカーだけではなく、競馬、クリケット、ゴルフ、あらゆる「スポーツターフ」の原点の地でもある。
 さらに、イギリスにはこんなたとえ話もあると聞いたことがある。庭を手入れし景観を維持することは町の義務とされ。敷地には芝を必ず植える。こうした国民性からくる話のようだが。
「もしイギリス人が死んで、心蔵を取り出せば、そこには必ず1本の芝が生えているはずだ」

 芝というと、野球にも共通する話である。
 残念なことに、こちらのほうはサッカーほどのスピードで進歩しているわけではない。
 見方にようては、後退している可能性もある。サッカーならば特に、ゴールキーパーの技術習得は、芝があるか、ないかに左右される。つまり、転んで痛ければ、いい受身などできないのだから。これと同様のことは、野球でも顕著だ。日本のプロ野球ではフランチャイズ球場11のうち人工芝の球場が8つにもなる。天然芝は、阪神タイガースの甲子園球場、広島カープの広島市民球場、オリックス・ブルーウェーブのグリーンスタジアム神戸の3つしかない。
 残る球場のうち、東京、西武、名古屋、大阪、福岡がドーム球場で、神宮、千葉、横浜はドームではないが、内外野が人工芝となっている。雨での中止を思えば効率はいい。東京ドームが完成した際、もっとも喜んだのは選手ではなくて弁当屋であった、という話もあるほど、プロ野球と営業は切っても切り離せない。しかし、弊害はすでにさまざまな点に及んでいる。

 以前、スポーツ新聞で巨人担当をしたことかある。チームも、野球も好きであったが、ひとつだけ、ドームが嫌いだった。報道関係者入り口にある回転ドアを押して、ドーム内に入ると空気圧が変わる。人工芝はもちろん足腰への負担が大きく、選手生命にも大きな悪影響をおよぼす。さらに、外野の守備などでも、選手のダイナミックなプレーの紡げになる。天然芝ならば、多少リスクを負ったプレーであっても怪我はない。
 メジャーと日本のプロ野球の差についてはさまざま言われるが、個人的には球場の違いが、いい天然芝に支えられているか、言ってしまえばコンクリートの上に一枚のカーペットを敷いた上でプレーするかが、スピードにしても、パワーにしても、差の一因になっているのではないかと思う。

 メジャー30チームの球場は、人工芝が9、天然芝が21と、ここ2〜3年、かつては人工芝だった球場を再び天然芝に戻す動きが活発である。因果関係など立証できないが、昨年、投手ではなく初めて野手として渡ったイチロー(シアトル・マリナーズ)新庄剛志(サンフランシスコ・ジャイアンツ)の2人の外野手が、日本では数少ないグリーンススジアム、甲子園と、天然芝の球場でプレーをしていた点は興味深い。

 もともと「ボール・パーク」と、球場を呼ぶ国である。芝は重要なエンタテインメントなのだ。明るい陽射しに照らされる緑の芝。夜はライトに輝いて、そのかすかな匂いをかぐと、スポーツに触れる喜びを味わうことができる。ドームで、回転扉を開け、空気圧に一瞬圧迫されるような思いとは、まるで反対の感情である。
 今年から、東京ドームは、人工芝を天然芝に近い人工芝という変則型に替えた。芝の部分が良くなるために、以前よりは打球のスピードが遅くなるとされている。打球が遅くなれば走者は有利になるから、守備側は一刻も早くボールに追いつくためにより動きを速くしなくてはならない。芝がひとつの競技に与える影響、変革まで起こしてしまうほどのインパクトを、象徴するものである。

 野球の人工芝傾向と、サッカーの、世界的にも高い評価をされたピッチの隆盛とは、まるで逆の動きのようで、じつはつながる。サッカーほどの激しさのない、体を傷めることが少ない野球でも、部分的に天然芝を敷くことは、決して不可能ではないし、営業と選手生命やエンタテインメントを両立できることは、札幌ドームが実証している。ドームでも日照や通気性を両立できるならば、梅雨や四季のある日本でもスポーツの新しい可能性を示唆することにもなる。

    W杯の愉しみはこれからだ

 金銭での赤字、黒字の収支決算は、あと1か月もすれば片がつくだろう。しかし、緑の収支決算については、じつはまだなにも終わっていない。むしろこれから先こそ、その財産と貯金、運用を試されるのである。10会場の芝が枯れることは、スポーツを愛する気持ちの枯渇につながるものでもある。W杯の本当の愉しみとは、これからでもある。
 芝は、特にスポーツターフというのは、内面的なものを含めて、その国のすべてをシンプルに映し出す絶好の「鏡」なのかもしれない。

「婦人公論」1112、2002.8.7号より再録)

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