◆私のサッカー手帳

第3回:2つの異文化を「つなぐ」通訳


重要なのは、「単に言菓を訳す」ことや、契約をまとめあげることではない。
スポーツのコーディネートや通訳は、即興的な要素やユーモアのセンス、
きわめて微妙なニュアンスをどこまで正確に把握できるせが重要なのだ。
まして相手が、気難しいサッカー選手だとしたら。

    普通の主婦が今では

 広い記者会見場には、大袈裟に言うなら世界中の巨大なサッカーマーケットを、たった1行の記事で動かしてしまうような影響力を持った新聞社や、影響力の先鋒に立っている敏腕記者たちがズラリと構えている。
 イタリア代表は、そのユニホームの色から「アズーリ(地中海ブルーの意味)」と親しまれでいる。1か月にも及ぶW杯期間中、イタリアチームの取材拠点となる「カーサ・アズーリ」(イタリアの家という意味、仙台市内)では、トラパットーニ監督の定例会見が始まるところだった。約100人が座り、熱気に包まれた会見場に入ると、大男たちに混じって、「彼女」の小さな背中も見える。
 時に、ビーンボールまがいの、あまりにスーレートで、ケンカを誘うような質問や、あるいは相手の意図をわざと外すチェンジアップのような問いが、早口のイタリア語で場内を飛び交う。そのたびに、62歳になる監督は、信じられないほどのバイタリティで身振り手振り、時には、立ち上がって自分から記者を指名し、ジョークをたっぷり入れながら答えていく。

 この何年か、セリエAに、中田英寿(ペルージャ─ローマ─パルマ)や、名波浩(ベネチア─磐田)が移籍したお陰で、私も、こうした会見を目撃することができた。ともすればケンカ腰に映る会見を見るにつけ、サッカーに関する限り、イタリアのメディアは、彼らの国の伝統に大きく背いていると思う。
 その固い守備を中心に組まれるサッカーは「カテナチオ」(鍵の意味)と表現され、鉄壁の守りを指す。しかし、メディアの姿勢は、こうした「守備的」思想とは一切無縁の、攻撃的なものである。
「イタリアは、ピッチ上のプレッシャーがものすごい。本当にちょっとでも気を抜けば、ボールを持っていかれてしまう。同時に、ピッチの外、つまりメディアのプレッシャーもとてつもなく厳しいね。一晩で、天国から地獄に落とされ、クビだと書かれた選手が、一晩でヒーローにもなる。新聞は見ないことにしている。採点も。それが一番だから」
 世界でもっとも毀誉褒貶の激しいリーグを生き抜くことについて、中田選手にそう聞いたことがある。ピンク色の、実に20ページ以上をサッカーだけで占拠しているスポーツ紙「ガゼッタ・デッロ・スポルト」を読むことも、各紙が試合、選手、審判までも「採点」する欄も、滞在5年目を迎える彼は見ないという。至極当たり前の、自己防衛策だろう。

 会見も40分以上進んだところで、3列目に座る「彼女」が手をあげて、監督に質問を始めた。会見場にいた女性で質問をした記者は、一人もいない。
「エクアドルとの試合がカギとなりますが……」
 イタリアのグループリーグ(G組)の相手、エクアドルについての問いである。
「初戦に勝つことはもちろん重要ですが、ただ、これだけ大きな大会の場合、勝って当たり前という以上に、勝ち方にもこだわるべきではないでしょうか」
 イタリア語では、「ストラピンチュレ」と言うそうである。「勝利以上の勝利」とでも訳せばもっともぴったりくるだろうか。彼女が聞いていたのは、ただ勝つのではなく、優勝を狙うチームならば、快勝を狙っていかなくてはならないのではといった内容である。
 監督は、毅然と答える。
「W杯で重要なのは、どんな勝ち方をするのかではなく、とにかく勝つことだ。特に初戦は内容ではない。勝てばいい」

 会見は結局1時間。会場にいたイタリア記者の女性で質問をしたのは、彼女だけだった。
「チグサさん、なかなかやるなあ」
 そう声をかけようと、会見終了後、前列に近づくと、彼女はメモを整理しながち、世界のサッカーマーケットを動かすような記者たちと談笑をしている。
「私は、サッカーなんてまったくわからないんです。このお仕事もどこまでできるか……家のこともあるし。確かにイタリアにはもう10年近く住んではいるんですが、サッカー用語なんて、見たことも、聞いたこともない、知らない単語ばかりです」
 わずか3年ほど前まで、とてものんびりとした口調でこう嘆いていた普遍の主婦が、今では、イタリア代表監督相手に手をあげ、「勝利」についてではなく、「勝ち方」について質問をするなんて! これまで何度も、何度も、セリエAを取材するためイタリアを訪れ、再会するたびに、サッカーへの知識、エキスパートたちにも引けを取らない堂々とした様子、これらの進歩に目を見張る感動を味わってはきた。しかし、W杯を迎え、本当に、通訳としての仕事にとどまらない、ジャーナリストとしての、ライターとしての、ある意味で自信が生まれているかのように見える。

 日本のスポーツ紙が、世界最高と称されるセリエAのゲームや移籍などの詳細な情報を日々掲載するために、現地に通訳を配置し、同時に連日のレポートを必要とするようになったのは、98年9月、中田選手が「一角獣」をチームのシンボルとするペルージャに移籍してからである。
 日本中の誰もが知らなかっただろう。イタリアでは唯一、海のない「ウンブリア地方」にあることも、ローマから車で約3時間ほどの、なだらかな葡萄畑に囲まれた丘陵地であることも、一大名産地でもあるチョコレートの甘い香りに包まれた街であることも。
 まして、突如、若き日本選手が移籍をしたことが、彼女、そして彼女に代表される通訳のみなさんにとって、まったく想像のできなかった激動の始まりとなったことも。私も98年秋に、ペルージャで彼女に会ってから、今では、「スポーツ報知」の通信員・通訳と、フリーランスの記者といった立場以上に、現地に行けば自宅での食事に誘ってもらうような友人にもなった。
 主婦であり、9歳の男の子の母親でもある倉石千種さんは、スポーツ紙と、イタリア最大手のスポーツ紙である「ガゼッタ」の特派員記者として、今大会を取材に来ている。
 再会を喜び、彼女の席に行くと、パソコンが置かれていた。メモをやっとの思いで取っていたはずの主婦が、デジカメで撮影した写真を送り、原稿をパソコンで打つ。
「これから、スタジアムへ行って、練習と、選手の会見を取材してきますね」
 彼女の力強く、落ち着いた言葉に手を振り、後ろ姿を見送った。
 あのか細く、華奢な背中を。

    日本留学から始まった

 サッカーに限らないが、私の年間の海外出張は十数回にも及ぶ。最近では、サッカーでも世界的な選手の単独インタビューといった、10年ほど前には信じられないようなアサインメント(仕事)も多く、そのたびに、現地のコーディネーター、通訳の方たちの力をお借りすることになる。
 例えば、イタリアのスターであるサッカー選手のインタビューを企画するとする。電話、ファックスでのやりとりに始まり、こちらの意図を伝え、相手の日程と合わせ、もちろん活字媒体の場合ギャラは知れたものとはいえ、こうした段取りから、実際の取材日のセッティング、時にはホテルや移動手段といった生活環境を確保するところまで、協力をお願いすることになる。
 これだけの複雑な交渉を、文化も、習慣も、言葉も違う相手と行って、なんとか原稿を出すまでに至るのであるから、通訳、コーディネーターといった仕事がどれほど重要なウエイトを占めるかおわかりいただけるのではないかと思う。

 必ずしも、競技への専門的な知識だけが重要になるのではないところが、異文化に、スポーツを通して触れてきた私の結論である。確かに詳しいほうが楽なこともある。しかしスポーツにおいての通訳やコーディネートの仕事で重要なのは、「単に言葉を訳す」ことや、契約をまとめあげることだけでは決してない。スポーツのコーディネートや通訳では、即興的な要素やユーモアのセンス、きわめて微妙なニュアンスをどこまで正確に把握できるかといったことが重要になる。まして私たちが相手にするのは、気難しいサッカー選手ばかりなのだ。

 私は仕事を通じて、このことを千種さん、そして、この女性にも教えられたと思う。
「90年、イタリアでのW杯でした」
 イタリア取材で世話になり──つまり無理ばかりをお願いしたという意味になるが──千種さんと同じように、気のおけない友人でもある、モニカ・サルバトーリさんもまた、今大会、イタリア民営放送「RAI」のスタッフとしてコーディネートに、番組のかなり難しい通訳のために、約1か月半にわたって仙台を拠点に働いている。日本留学の経験から、敬語の使い方まで完璧である。

「サッカーで通訳の仕事を手伝わせていただいた初めての体験だったのですが、激しい言い争いの間に入ったことがあります。当時の、もちろん今もサッカー界のスーパースターの取材をめぐってなのですが、事前にある程度の約束をしていた日本のテレビ局と、サッカーであり、スターであり、流動的なのは常識だとするイタリアのクラブとがケンカのような状況になってしまったんですね。そのとき、こう思ったんです。ああ、自分がお互いの言葉をそのまま忠実に訳したところで意味がないって」
 互いに対して事情を説明し、イタリアと日本の習慣的な違いや、行き違いをひとつずつ正して、決裂は避けることができたという。

 とても困難だが、違った2つの文化を、自分の言葉と機転、そしで情熱から「つなぐ」仕事に本当に惹かれたと、モニカさんは笑ぅ。彼女が、ローマ大学の同級生たちと作った会社の名前は、「LINKJAPAN」。日本とイタリアを「つなぐ」という意味で「縁」という文字を、ロゴで使っている。
 サッカーだけの仕事ではなく、美術関係の番組やビジネスの仲介もする。イタリア人は、日本人以上にせっかちなところがあるし、交渉や話し合いは実にストレートで自己主張も徹底している。何よりもサッカーは、多国籍の選手によるチーム構成、男文化や言葉のぶつかり合い、サッカーの質そのものの違い、これらすべて、文化の形を象徴するような存在である。私も常に辞書は持って歩くが、特に、サッカーを扱ぅ場合、新聞記事でも実に多様な表現がユーモアとともに使われるため、辞書を見てもまったく意味がないこともある。

 モニカさんは、87年、「自分から見て、できるだけ理解しがたい、ちょっと変わった言語を学ぼう」と日本への留学を決めた。初めて日本に着いて名古屋のホームステイ先に移動する新幹線の中で早くも、「日本って面白いよ、不思議だよ、と友人に手紙を書いていたんです」と振り返る。
 その後、お茶の水女子大学に入学し、ローマ大学では卒論に、日本文学の、それも「心中」に興味を抱き「近松門左衛門」を選んだ。そして滞在期間中、友人の紹介で、ご主人の太一さんと出会った。
「反対はされませんでしたが、私自身、日本の男性とイタリアの男性は、一般的にも無口と、とてつもないおしゃべり、表現下手と表現がやたらとうまい、などあまりにも違うのでうまく行きっこないと思っていました」

 実際には、「日本人らしからぬ」とモニカさんも笑う、ご主人の社交的で楽しいパーソナリティによって2人は今、モニカさんの生まれた街、ローマで暮らす。観光ポイントとしても有名なナポナ広場に近い、おじいさんの代から受け継いだというアパートを、彼女のスクーターの後ろに乗って訪問したことがある。
 パスタが茹で上がる瞬間、「このパスタは冷めたらもうダメですよ!」と、彼女がこぎれいに改装されたキッチンから叫び、彼が着席するまでのタイミングがあよりにも絶妙で、なんだか、パスタの艮さとソース絡み具合が、異文化が見事に融合した2人の結婚に似ているようにも思えて微笑ましくなった。
 もちろん、熱狂的な「ロマニスタ」である。ロマニスタとは中田選手も在籍したセリエAの強豪、ASローマのファンのことで、家族で年間ボックスシートを持っているそうだ。サッカーに関しては仕事を通じてさらに知識が増え、中田選手の通訳も、記者会見や取材のために何度も手伝い、彼の信頼も厚い。

「話すたぴに中田選手のイタリア語が上達していて本当に驚きました。イタリア人社会に溶け込んで仕事をするのは、簡単ではないですし、本当にすばらしいと思います」
 彼女は人と話す際、できるだけ多くの言葉を交わす努力をしているように見える。その結果、相手が自然と笑顔になり、こちらの意図をより深く、正確に伝えられる、そんな魅力にあふれる。

    人と人の心をつなぐ

 長野県出身、日本で美大を卒業しテキスタイルの会社でOLをしていた千種さんは、世界的に布のマーケットがフランスからイタリア、それもミラノに動いていく時代を敏感に察知し、ペルージャ大学でデザインの勉強をさらにするためにイタリアに渡った。
「異文化に戸惑うことが楽しかったんですね。うまくいかないことも、とても楽しめる。もちろん言葉には苦労はしましたが、夫とアンティークの趣味を通じて出会い、ずいぶん変わったと思いよす」
 不動産業を営みながら、日本人の世話役も買って出るご主人のファブリッツィオさんは、専業主婦が、サッカーのために外に出ることになったことを「サッカーを観たこともない彼女にできるのかな」と思っていたそうだ。しかし、向上心をもって、これまで読むことのなかったスポーツ紙、サッカー面を、連日辞書を片手に学ぶ姿に、一人息子のミケランジェロ君と留守を預かり、支援する。

 サッカーの専門用語も何ひとつわからなかった彼女が、今では選手のポジションについて議論をする。こうした姿を見ると、スポーツのもたらす、不思議な魅力を感じる。各クラブの監督たちも少しずつ、彼女の存在を認めることになったのだろう。
 ローマ時代には、名将と言われるカペッロ監督が彼女の名前の「千種」という意味を聞き、「素敵な名前だ。ではこれからフィオレッラ(イタリア語で千の花)と呼ぶことにしよう」と、ニックネームの命名者ともなった。クラブの関係者だけではなく、選手からもそう呼ばれることがあるそうだ。
「中田選手がこちらに来たお陰で、いろいろなものを学んだと思います。同じ日本人として、彼が異なった文化の中で、スポーツ選手でありながらまるで芸術家のような重厚さやこだわりを持ってサッカーに挑む姿には、本当に共感を待ちました」
 千種さんはそう話す。W杯終了後も、さらに仕事を続けたいと希望する。

 2人は、異文化をサッカーのポールを扱うかのような軽快さで結びつけているように思う。2002年のこのW杯をずっと待っていたというモニカさんは、言った。
「言葉は通じなくても、気持ちは通じます。私がつなぐのは、言葉ではなくて、人と人の心なのだと信じたいです」
 まるでパスをかわすかのように、言葉と心をつなぎながら。広いピッチという世界の間をコロコロと。

●倉石千種さん/主婦であり、9歳の男の子の母でもある彼女は、イタリア在住歴10年を超えるものの、つい3年前まではサッカー用語を「見たことも、聞いたこともない単語ばかりだった」と語る。いまやイタリア最大手スポーツ紙の派員記者。

●モニカ・サルバトーリさん/お茶の水女子大学への留学経験を持ち、夫は日本人。このW杯はイタリア国営放送のスタッフとして日本語を駆使する。美術、ビジネス関係の通訳の体験からも、サッカーの通訳の難しさを語る。

「婦人公論」1110、2002.7.7号より再録)

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