山下芳輝が都並に学んだもの


 12月5日、J1参入決定戦が終了すると同時に、室蘭には粉雪が舞い始めた。
 インタビューを受ける選手たちの呂律(ろれつ)が寒さで回らない。そんななか、Jリーグ残留を決めた福岡のFW・山下芳輝(21)は雪空を見上げていた。
「今、気温マイナスですか。タイは確か38度とか……気温差は40度ですね」
 敗者復活戦では、福岡が3−0で札幌を下し3つめのイスを手中にした。このシリーズで日程的にも、状況においても、もっとも厳しい戦いをしたのは福岡だろう。初戦のフロンターレ川崎戦では、ロスタイムまでリードされていた。これでJ2転落か、と誰もが思った瞬間、山下のシュートが同点ゴールとなり、延長で勝利をもぎ取った。
 チームを崖っぷちから救った若きストライカーにはもうひとつ、気になっていることがあった。
 彼はタイでアジア大会を戦うU−21日本代表(五輪代表)のメンバーでもある。しかし、チームが入れ替え戦を勝ち抜かないことには代表への合流はできない。最後の最後までかかって、ようやく代表に合流することができた。
「代表の試合(予選リーグ)はテレビで見ていましたが、やはり参入戦に勝って行かないことにはみんなに合わせる顔もない。それを思って代表の試合はあえてニュースを見る程度にし、こちらに集中していたんです」
 環境の変化、とはよく使う言葉だが、マイナス3度から気温30度を越えるタイに飛ぶ、こんな「激変」を体験する選手も少ない。
 Jリーグの下位チーム所属ながら、トルシエ代表監督に選ばれた。プロ3年目の今季は前半から快調に得点。福岡の森孝慈監督も「ゴール勘が非常にいい選手。将来の代表FWを背負う力の持ち主」と評し、参入戦中はスーパーサブとして起用された。当初は戸惑っていたが、試合中常に体を作り状況の変化に備える、また得点チャンスを短い時間に集中してものにする、こうした勝負強さを学ぶことができたという。昨年は13試合でわずかに3点。1年で成長したのには、ちょっとしたきっかけがあった。
 都並敏史(37=平塚)の存在である。日本代表左サイドバックとして、現役の井原正巳(横浜M)に続く出場数を誇り、昨年平塚に移籍するまで福岡でプレーしていた。
 高校の強豪、東福岡のエースとしてクラブ入りしてきた山下は、元代表からさまざまなアドバイスをもらった。
「自分がU−21の代表に入ることができのは、都並さんのアドバイスのおかげでもあります」
 身長177センチだが、入団当初は体がまったくできていなかったそうだ。高校時代には、持って生まれたすばらしい才能で戦っていたが、それだけで通用する世界ではない。悩んだ時期もある。
 将来の代表を担うストライカーの存在を、ベテランは決して見逃さなかった。
「地味でも基礎体力作りを怠るな」
 そうアドバイスを続けた。
 得点能力の高さは目を見張るものがあったが、体が華奢すぎた。高校生が体を作るのは当然だが、Jリーグで即戦力となった選手でも、長いリーグ戦を戦う基礎体力の不足から、選手生命にかかわるような大ケガをした例は多い。
 '96年、19試合に出場してわずか2得点だったルーキーに、都並はまずは下半身を鍛え、上半身を作り、次に柔軟性をつけるように忠告した。自らケガに苦しんだ経験からだ。
 忠告通り、都並が退団したあとのオフにはウエイトトレーニングを行い、ケガを防止するためさまざまな練習を取り入れていった。体重は筋肉の分3キロ増加し67キロと、ひとまわり大きくなったという。
「体作りをきちんとやれたことは自信にもなりました。当たり前のこと、ちょっとしたことでしたが、アドバイスには本当に感謝しています」
 山下が新生日本代表として合宿参加をスタートした日、奇しくも都並は今季限りの引退を発表した。
 6日、成田からタイに向け飛び立った。気持ちと、洋服の切り替えは大変そうである。それでもこの雑誌がでるころには、得点を奪っているかもしれない。
 雪の室蘭から酷暑のタイへ、5千キロのひとり旅。

週刊文春・'98.12.17号より再録)

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