小野剛が代表残留を決めた岡田氏の一言


「昔は、醤油3本頼む、なんていうのもありましたから。海外遠征もずいぶん楽になりましたね……はい」
 国際的なビッグイベントに出発するのは「あの日」以来約5か月ぶりとなる。
 タイ(チェンマイ、17日から)で始まったアジアユース選手権に出発する小野剛技術委員(36歳=前・日本代表コーチ)を取材するため、成田空港で待ち合わせをした。
「あの日」とは今年5月27日、日本代表がフランスW杯の直前合宿(スイス)に出発した日である。今回は、ユースチームのための情報収集、清雲栄純監督(48)のサポートに回るため現地に赴く。
 空港では、すでにタイに到着している舞台に頼まれた買い物、調味料ではなく新刊本を購入する。今では、どの年代の代表でも、栄養アドバイザーが同行し食事に配慮する。現地での日本食の調達も当たり前に行われるようになった。これも、小野氏ら、長年日本代表を支えてきた協会スタッフらが築いた「財産」のひとつだ。

 岡田武史代表監督の退任にともなって、自らも協会を退くつもりでいたという。ちょうと昨年の今ごろ、もうあとがないかった代表を、岡田監督との二人三脚で引っ張った。
 その際、監督から「もしW杯で結果が出なかったら、剛(小野氏)も、もう指導者の道はなくなるかもしれない。将来の仕事、家族へも大きなリスクを負うが受けてくれるか」と決断を迫られた。
「W杯で3敗した以上、コーチである自分にも監督と同じ責任があることは明白でした。辞めるつもりでした」
しかし、旧強化委員会が技術委員会として改組され、その「ナショナルチーム担当」に就任した。その要請を受けて相談した相手は、現場復帰へ充電中の岡田氏だった。
 監督が替わればスタッフは一変する。事実、トルシエ新監督(フランス)が就任しコーチ人は全員入れ替わった。フランスW杯を戦った岡田ジャパンを知るのは、協会の総務、広報関係者と、小野氏だけになった。
「岡田監督には、こう言われました。私(小野氏)までいなくなったら、誰が、あの敗戦を、誰があの経過を分析してあとに生かすのか。だから残って、そういう責任を果たすことも重要な選択だ、と。考えて決心したんです」

 フラン史の代表でもおなじみだったが、小野氏の偵察情報には定評がある。その情報を与えるための手法も独特だ。選手個々の「ハイライトビデオ」を作製し、フランスでは「3バック」を浸透させるために、自作のコンピュータグラフィックスを駆使。選手に苦手意識のあった3バックを、成功のイメージに変えていった。
 フランスに限っていえば、それらのハイライトや情報は、少なく見積もっても1000本はある偵察ビデオの中から抽出したものだった。
 今夏、フランスでの戦いが終了し、大会と代表の総合レポートを作り終えた。世界の壁は厚く、一方では薄い。わかっていたこととはいえ、若手層の強化と、指導者の育成がいかに重要なテーマなのかを改めて知ったという。

 イングランド留学でサッカーを学んだ。歴史の違いはあるが、思想の違いもサッカーには少なからず影響しているのでは、と考えている。
 たとえば、何かを建築する場合──。
「ヨーロッパでは、下水道の完備とか、ちょっと土地があればそこに芝を入れ公園を作る。即、役に立っているのかはわからない。けれども間違いなく、社会を潤していく」
 協会での仕事を再び選んだのは、下水道を作ったり、公園を整備したり、あのフランスでの激闘を味わったからこそ本当に理解できたものを、形にしていきたいからだった。そしてそれが、フランス代表選手たちの「仕事」に報いる道だと考えるからだ。
 現在は、協会関係者とともに、あらゆる年代の後方支援に回っている。代表コーチよりも忙しく動くことになったが、やることは山積みだ。
 ユース代表には、フランスを戦ったMF小野伸二(18=浦和)も、DF市川大祐(18=清水)もいる。
「あの世代は成長が速いですからね。楽しみです」
「あの日」以来の出発ゲートに、小野氏は早足で消えていった。醤油ではなく、分析データをかばん一杯に詰めて。

週刊文春・'98.10.29号より再録)

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