中田英寿、3年越しの“約束”


 3年越しの「約束」は果たされた。
「いつか、必ず彼らを驚かせよう」
 彼らとはセリエA、そしてユベントス。
 中田英寿(21)がセリエAの開幕戦で、昨年の覇者ユベントスから2ゴールをあげたとき、ベルマーレ平塚の統括部長代理・上田栄治氏(44)ほど喜んだ人もいないのではないだろうか。
 平塚への入団当初から、移籍に関するレールを丁寧に敷いてきたのだ。
「契約問題などありましたが、間に合って本当によかった。最後に話したのは1週間くらい前でしたか。2人でイタリアに行ってからもう3年……夢のような早さでしたね」
 2人は開幕前に話をしたが、中田は契約問題についての質問を一切しなかった。開幕戦への出場が微妙、という不安な立場にいることをおくびにも出さない態度に、上田氏は開幕戦での活躍を確信したていという。

 中田が最初にイタリアに行ったのは、当時18歳だった2年前の'96年正月。入団当時の契約だった「海外留学をさせる」という項目をまっとうするためだった。
 受け入れ先はユベントスの21歳以下の「プリマベーラ」。シーズン中であること、完璧な「お客サン」扱いだったこと、その2点からトップの練習に参加する機会はなかった。
 引率していったのが上田氏で、2人は1週間同じホテルに泊まり、残り2週間は中田が1人でウィークリーマンションを借りた。
 そのプリマベーラで行われた、たった45分の紅白試合が、13日の開幕戦2ゴールへの布石である。

 中田の動きは群を抜いている、とサッカー協会の技術委員でもある上田氏は思った。ひとつのパスで展開を変える状況判断、技術、「冷静に見て」どれをとっても、頭ひとつ抜けていた。最高峰と言われるセリエの、しかもNo.1チームである。見逃すはずはないと思っていたという。
「先に帰国したんで、いいかヒデ、訳のわからない紙(契約書)を出されても絶対にサインなんかするな、と難度も念を押したんです。アイツはハイハイ、じゃあね、って」
 結局、変な紙は出されずに終わった。

 もし南米から、あるいはアフリカから来た18歳だったら? 極東から来た18歳に、ユベントスは冷たかった。
 それまで経験した国内でのセレクションでは、常に評価をされてきた男が、始めて虫、いや無視をされた。ひと声もかけられずに終わった味を、2人は理解していた。
「少なくとも同じ年代で自分は通用するとわかった。今度は留学では絶対に行かない」
 帰国した中田に聞くとそう言った。上田氏も同じだった。
 入団当初の契約は、「何回かの留学をさせること」だったが、それを変えた。
「ヒデの力はもはや留学のレベルではない。今度は移籍して、彼らを納得させよう、いつか彼らを驚かせよう」 それまで肉体的な接触は大嫌い、と話していたはずが、無言で筋肉トレーニングをするようになったのもこの時期からである。

 W杯期間中、エクスレバンで中田に聞いたことがある。移籍の具体的な話はしなかったが、「リセットしたいよね。サッカーを」と笑っていた。
 Jリーグで3年、彼にとって、各チームも、外国人を含む個々の力も、すべて未知のものではなくなっていた。閉塞感を打破するために選んだのは、予想不可能な中に自分を追いやり、ゼロからまた新たな実績を築くこと。通用するか、しないか、ではない。本人は、通用する、と確信して言っているのだ。

 かつての同僚、平塚の呂比須は12日、帰化をしてちょうど1年になった。日本滞在11年になる。祖母はイタリア人である、と明かし、こんな話をしてくれた。
「おばあちゃんはいつもボクに言ってたね、イタリア人はハッタリ屋だから最初が肝心。何でも最初にガツンと見せるんだよ、って。ヒデには開幕戦にその言葉を贈ります」
 その言葉通りになった。
 ユベントスのリッピ監督のこんなコメントがあった。
「ナカタはセリエで十分通用する」
 2年前に聞きたかった言葉を、中田は自ら勝ち取った。

週刊文春・'98.9.24号より再録)

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