フラビオが“息子”に教えたもの


 夏休みを海外で過ごそうという人たちで混雑する成田空港から、1人の「日本代表」がブラジル・サンパウロに向けて飛び立とうとしていた。
 手にしていたのは、雑誌、土産、そして、日本代表のデータ。多少かさばるが、母国の治安を考えれば、絶対になくしたくないものは、手荷物にした方が安全である。
「さてさて、タンシンフニンもこれにて終了。色々あったけれど、本当に楽しかった。またすぐに“帰国”できると思うから、そうセンチメンタルに考えることもない」
 体力面の維持、管理に携わるフィジカルコーチ、略してフィジコ。ルイス・フラビオ・リベイロ・ボォンゲルミーノ。略してフラビオ(49=ブラジル)。口をついて出てきた「帰国」の言葉に吹き出した。日本代表コーチに就任して以来4年、行動は常に日本人とともにし、幾度となく遠征先から成田に「帰国」してきたのだ。

 7年前、サッカー大国から、サッカー途上国に来日したとき、まだフィジコ、という言葉は浸透していなかった。'91年、日本では3人目のフィジコとして川崎と契約。代表には、'94年12月、加茂周監督の要請で代表コーチに就任にした。外国人フィジコとしては2人目。しかし、誰よりも長く、誰よりも深く、フラビオは日本に係わり、代表を初のW杯出場に導いた。
 日本代表コーチを引き受けるにあたって、最初に行なったのは、「ドーハの悲劇」と言われた'93年のW杯予選、対イラン戦を徹底的に分析することだった。どの時間帯に、誰がどういう疲労を見せ始めたのか、瞬発力、持久力、一体何が足らなかったのか。湿度、気温、日本選手の肉体的な限界点を探ろうとした。

 ブラジル最優秀フィジコを受賞しているベテランにとって、ロスタイムに失点したことは、肉体的コンディションもその一因であり、「悲劇」などという感情的な話しではない。科学的な分析によって防げる事態であり、どんな環境下であっても日本代表をホイッスルまで全力で走ることのできる日本代表チームを築くこと──それが使命だと自分に言い聞かせた、という。
「どうも最近、サッカースパイがあちこちで私をマークするトレーニングスパイが多くてね、企業秘密もあるんだよ……」
 白髪のコーチはいたずらっぽく笑って言う。
「日本人は、プレーやゲームの流れの中で筋力を使うのが苦手だった。体力トレーニングと戦術が常に分かれており、これがケガを招く原因にもなっていたと思う」

 彼の練習メニューは多彩だった。肉体的なデータを取ることはなかった。しかし、フットバレーや、ちょっとした用具を使ったゲームで選手が大笑いしながら練習を楽しんでいるうちに、「疲労を抜いて、どこが足りないかのテストも兼ねてしまう」(フラビオ)。そういう計算し尽くされたメニューだった。
 フランスW杯では練習中の衝突などを除いて、故障した選手はいなかった。その暑さゆえに、「ナントの死闘」といわれたクロアチア戦(6月20日、気温35度)後、長沼健・前日本サッカー協会会長はVIP席で各国の関係者たちに「日本にはみんなが今すぐにでも連れて帰りたい人がいる。それは、世界3指に入るフィジコ」と、称えられた、と話していた。
「日本で学んだのは、小さいことを積み重ねて行くこと、忍耐すること。選手もそうだったが、黙々と何かに従事するという姿が好きだった」

 じつは、W杯出場よる被害も受けている。フランス入りする直前、ブラジルの自宅に、代表のコーチを務めていることを知った強盗グループが、銃を持って押し入った。
 家族の機転で何とか現金と車を持っていかれただけで済んだ、ラッキーだったと、大会中に聞かされた。しかし、日本的精神を愛するブラジル人は、飛んで帰りたいほどの不安を胸にしまって、動揺した素振りは一切見せなかった。
 代表選手は子供たちの年代だった。だから英語ではいつも「マイ・ボーイ」と選手を呼んでいた。
「時々言うことを聞かないから尻をひっぱたいたけどね。愛するマイ・ボーイズによろしく。ありがとう、また会う日まで」
 8月10日、大混雑する成田空港から1人のブラジル人が「一時帰国」した。

週刊文春・'98.8.27号より再録)

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