最少年・市川は世界を“削る”か


 市川大祐(17=清水、右サイドバック)に最初に面食らったのは、韓国の主将、ハ・ソクジュ(30=セレッソ大阪)だった。ハ選手は、試合後こんなふうに話していた。
「やるじゃないか、そう思った。彼の技術的な反省点については、岡田監督、それに誰よりも自分自身がわかっていると思う。しかし、代表選手という厳しい任務にも耐えられる、そういうハートの持ち主だということはよくわかった。17歳だろうが30歳だろうが、それがある奴にはあるし、ない奴にはない」

 1日、どしゃぶりに気温1度と冷え込んだソウルで、市川は史上最年少の17歳10カ月で国際Aマッチにデビューした。
 前半12分、まず、韓国の左サイドバックで、対面する位置にいたハ選手から、“削られ”た。サッカーには、鋭いタックルを称して、人の足を「削る」という恐ろしい単語がある。
 市川は、韓国代表の主将に、「小僧、おまえなんか、お呼びじゃないよ」と言わんばかりの、痛烈な洗礼を浴びた。しかし、すぐ平気な顔で立ち上がった。
 15分までに、実に3回。タックル、空中戦とあらゆる手段で、韓国は17歳の少年にプレッシャーをかけてきた。野球にたとえるなら、内角高めに2ボール、そういう情況だろうか。腰が引ける。しかし、市川は引かなかった。理由がある。「代表」では、一瞬ひるんだために痛い目にあっているからだ。
 彼にとって日韓戦は、ある意味で雪辱戦でもあった。96年10月、世界大会出場をかけたアジアユース3位決定戦(タイ、対バーレーン戦)。PK戦にもつれ込み、U−16日本代表の主将だった市川はそれを外し、世界大会出場目前にして日本は破れる結果となった。その試合後のインタビューで、市川は「みんなに申し訳ない。PKを前に、一瞬気持ちがビビッたかもしれない。いつか必ず借りを返します」と、泣きじゃくりながら答えていた。

 韓国戦で、猛チャージに耐え、合格点といえるプレーを90分間見せた裏には、16歳で味わったあの借りを返そうという闘争心があったのだ。
「きょうは、代表であるという誇りを持って、とにかく気持ちだけは最後まで保ち続けるように、それを考えていました」
 試合後、市川は毅然と話していた。

 市川の落ち着きに面食らった人はまだいる。シューズを支給したことのあるメーカーの担当者である。
 わたしたちは、選手が着替え、試合への身支度を整える場面を決して見ることはない。選手にとって、それはある意味で神聖な儀式なのかもしれない。縁起をかつぎ、すべて順番通りにする選手いるし、瞑想する選手もいる。市川は、スパイクのヒモにこだわる。それも徹底的に。普通ならば、ヒモは上から通すか下から通すか、どちらかだ。
「彼は、上から、と言った後に、クロスする所はすべて、内側から外側に行くヒモが上になるように、と注文するんです。大の大人が首をひねって考えましたよ。で、渡したら、あ、ここ間違ってますよ、って指摘されましてね」
 担当者は苦笑する。
“知恵の輪”ではないが、これは、絶対にヒモがゆるむことも脱げることもないよう、彼が経験から考えた結び方なのだという。試合前、ともすればはやる気持ちを、慎重にヒモを結びながらコントロールしたのだろうか。

 最後に、この試合、もっとも面食らっていた人は、何と言っても市川本人だろう。
 代表入りが決まった日、親しい人には「今回は、代表の気持ちを味わうだけでも十分満足」と、うち明けていたそうだ。それが先発、フル出場である。清水のアルディレス(アルゼンチン)監督は言う。
「若いから、いつまでに、どのくらい伸びるか、わたしにも見当がつかない。それほど、期待している」

 韓国戦だけではまだ、予選以来右サイドを死守してきた名良橋晃(鹿島)とは比較できない。ただ、少なくともW杯の試合結果だけではなく、そこに至るまでの「楽しみ」を、清水工に通う17歳の高校生が与えてくれたことだけは、間違いない。

●市川大祐/'80年5月14日生まれ 清水市出身 清水工3年在籍
 今年、U−19、シドニー五輪、フル代表とすべて日本代表入りする。

週刊文春・'98.4.16号より再録)

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