ナカタと“皇帝”の共通感覚


 気温25度と、汗ばむ陽気となった11日、この人の「衣替え」も、人知れずようやく終わったようだ。
「きょうは、さすがに必要はないでしょう」
 こちらの問いに、平塚のマネージャーは笑った。
「でもね、彼のことですから、万が一に備えて用意だけはしていますよ」

 中田英寿(21=平塚)が、冬用に手袋着用という「衣替え」を始めたのは、昨年11月1日のW杯アジア最終予選。もう後がないと言われたソウルでも韓日戦から、と取材メモには記してある。
 以来5カ月にもわたって、出場したすべての試合で、手袋をして来た。ピッチに立っていたフィールド・プレイヤー20人中、たった1人だけ手袋をしているという陽気の時もあった。それほど、手先を大切にしている。

 今回は、W杯で日本の運命を握るといわれるキーマンの、足ではなく指先の話である。

 寒くもない試合でも手袋をすることに気がつき、理由を聞いた。
「手袋? うん、手が冷たいと感覚が鈍くなるでしょう。指が冷たかったり、カチカチになってると、パスとかね、何となく感じが変わってしまうから。たいしたことじゃあないけどね」
 例の、小さくささやくような声で、教えてくれた。足でなく指で? パスの感覚を操る? 興味深い話を聞いてから、まずは彼の手先を見るようになった。
 実はこの5カ月間、ある1試合だけ、手袋をしていない。昨年12月、マルセイユ(フランス)で行われた世界選抜と欧州選抜戦に、日本代表として出場したゲームである。事前にメーカーに頼み、確約してもらいながら、実際に届いたのはGK用のグローブ。確かに手袋だが、中田はかなりむっとしていた。
 この試合、テレビでご覧になった方は、彼が腕を組んだような格好で、脇の下に手を入れている姿を覚えているかもしれない。指を暖めていたのだが、腕を組むのは、欧米では講義を示す。取材中、近くに座っていたイタリアの記者が、こちらに向かって盛んに質問してきた。
「何で、ナカタは腕組みして怒っているんだ。そうか、バティ(バティステュータ、アルゼンチン)もロナウド(ブラジル)も、パスをよこさないからか、なるほど」
 違う、と講義したが理解してもらえなかった。

 このゲームで欧州選抜の監督を務めたのは、皇帝・ベッケンバウアー(ドイツ)だった。中田への感想を試合後に聞いた際、ついでに、と無謀ながら指とプレーの関係について質問した。70年のメキシコW杯では、右肩を脱臼しながらも、腕を三角巾で吊ってプレーを続けた英雄である。
「指? ああすごく大切だと思う。もし、あの時、肩ではなく、指の骨折ならプレーは多少難しくなっただろうね」
 つまり、バランスを取るにも、ボールのコースやスピードをコントロールするにも、指の感覚は、そうないがしろにできるものではないと、丁寧に説明してくれた。
 競技に限らず、指とプレーの相関関係に注意を払うと、長野五輪スピードスケート500メートルで金メダルを獲得した清水宏保(三協精機)も、同じことを言っていたのを思い出す。インタビューに、「小指が力むと、体が動かなくなる。そうなるとレースは失敗する」と答えていた。それは、限られたアスリートたちだけがたどり着く、「皮膚感覚」なのだろうか。

 彼の面白さや真実は、必ずしもそのコメントにあるのではない。競技への姿勢、こうした独特の感覚は、見ているだけでも興味深い。
 昨年の最終予選では、張り替えられた国立競技場の芝を気にし、「芝が以前より速くなっているから、注意してパスを出さないと、ボールが追いつかない。つまり、足が遅く見えてしまう」と話していた。パス1本を考え抜く。仮にも、欧州でのプレーを望む選手なら、自分のミスが命取りになること、何が欠けているのか、わからないわけがない。
 衣替えは終わったが、もしフランスで少しでも気温が下がったなら、中田は手袋をして出てくるはずだ。たとえ19人がしていなくても。

週刊文春・'98.4.23号より再録)

BEFORE
HOME