川淵チェアマン、もう一つの夢


 元気がないらしい。あの負けじ魂も、鳴りを潜めている、そう聞いた。
 2月末にインフルエンザをこじらせ、おまけに無理がたたり、肺炎を患った。だから、3月21日にJリーグ開幕戦で平塚対川崎戦を観戦に来る、と発表されていても、実際には自宅観戦するのだ、そういう話も聞こえていた。Jリーグ誕生6年目にして、ついに「夢」がかなったというのに、自宅で観戦するなんて。
「第一、チェアマンから負けじ魂を取ったら……」
 そんなことを考えながら、平塚競技場の入り口で川淵三郎チェアマン(61)を待った。

 試合開始、やはり来ない。しかしハーフタイム。関係者が教えてくれた。遅刻したという。恐る恐る、貴賓室のドアを開けた。
「悪いことしたな。参ったよ、東名高速がひどい渋滞でね。さあて、どこで話そうか? ここでいいか? 試合観ながらでも構わないね」
 貴賓室からは、3年ぶりに1万3千人もの観客で埋まったスタジアムが見渡せる。

 7年前、Jリーグが発足する際の記者会見で、チェアマンは、発足は代表をW杯に送り出すため、サッカー界の長年の夢をかなえるため、と宣言した。
「日本代表がW杯に行けるなんて、本気で考えているんですか?」
 まだ神田に事務所(現在は港区虎ノ門)があった当時、スポーツ関係者からは、そう聞かれた。「日本サッカーの実力から考えても、プルは時期尚早」との声も多かった。成功もあり、失敗も多くあった。しかしとにかく、ひとつの「夢」がかなって迎える開幕戦である。
「時期尚早ね、そうよく言われたっけ。そう言われた時には、顔で笑って、心で……、そういうヤツは、一生、時期尚早と言ってろ、なんてね。きょうここに着いて、まず、これだけ入ってくださったお客さんを見てうれしかった。それに、芝が青々とまぶしいんだ。選手も懸命にプレーしている。それを見てまた感動した」

 チェアマンはスタンドに着いて、W杯出場を、初めて実感したという。
 この日、左足でシュートをたたき込んだ中田英寿(21)が、W杯出場が決まった後、もっとJリーグを評価してもらいたい、と話すのを聞いたことがある。
 高校に進学する当時、プロ選手になることを決断したのは、Jリーグができたからだったという。自分の世代の選手は、日本リーグ時代の先輩とは違い、Jリーガーになることを「選んだ」のだ。もしJリーグがなかったら、芝のピッチがあれほど魅力的にテレビに映らなかったら、間違いなく、自分は大学に進学していた、と断言した。
「お客さんが入ったこと? とてもうれしい。だって、ここが自分の軸足だから。W杯はわずか1カ月間のことだけど、Jはずっと続く。まずは足元からだね」
 中田は笑顔で言う。

 Jリーグ2つめの柱「地域との発展」という目標にも、追い風は吹くのだろうか。
「6年目の今年、あえて、脱・サッカーで行こうと考えている。各クラブが苦しい所を頑張っているのはわかっている。だからまずはリーグで、できるところからでいいからやってみるんだ。ほかの競技のサポートをね」
 実は17日、中・高生を対象にしたハンドボール教室を、Jリーグが初めて後援した。
 スポーツ界では異種目のこうした交流は前例がない。仕掛けは、ハンドボールとフットサルのコートが同じ大きさだから。バレー、バスケット、ラグビー、と、今後多種目でのジョイントを考えているという。

 開幕戦の観衆、9会場で17万1千267人。体調不良のはずが、平塚から横浜国際競技場に直行。到着すると、VIP入り口ではなく、チケット販売所に駆け出した。そして、一般席でダービーマッチに酔いしれていた。
「今の日本代表選手は全員がJリーグでプレーをし、その中で結果を出してくれた。それがファンにも通じたんだろうね。ありがたい。もちろん、開幕の観衆だけで浮かれたりはしてないよ」
 元気そうである。

週刊文春・'98.4.2号より再録)

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