井原が観る三百本のビデオ


「イハラさん、もっと高く、笑顔でカップを揚げてくださいよ!」

 国立競技場のピッチに、カメラマンの声が飛んだが、日本代表チームの主将・井原正巳(30=横浜M)は、結局、リクエストには答えなかった。ダイナスティ杯の優勝カップは、この日の中途半端なゲーム内容を示すように、方の高さのまま。
「いくら何でも、負けて笑顔なんて、そんな芸当はできるわけありませんよ」
 最終戦の中国には〇対二で敗戦。得失点差での優勝に、一人でこうつぶやいた。もちろん笑顔はない。
 記念写真もそこそこに、隣にいた中田英寿(21=平塚)が話しかける。
「あれじゃあ、ちょっと守備的に行き過ぎたんじゃないですかねえ。…は、取りに行けたと思うんだけど」
「先制点取られたからマズかった。もうちょっと、攻撃的に守備をする意識がなくてはいけなかったな」
 北風が吹き荒れるピッチで、二人は身振り手振りを交えながら、この日試された新戦術・スリーボランチについて振り返ったという。
 山積みの課題を露呈したダイナスティ杯を終えた七日には、代表のチームメイト数人と誘い合って、久しぶりに街へ出た。反省が山積みだったせいか(?)、帰宅したのは、あたりも明るくなり始める時間だった。
 しかし、井原が「自分だけ」に課している仕事は、これからが本番である。

 テープは三百本以上、もう数えることができないくらいある、と本人は苦笑する。
 自宅には二台のビデオデッキを備え、ビデオケースにはいままで撮り続けたビデオテープが、ぎっしりと詰まっている。重ね撮りはしない。
 井原は、試合が終わると、その日のうちに必ずビデオでプレーをチェックする。どんなに遅く帰宅しても、疲れていても、負けても、勝っても、よほどのことがない限り、その日のうちに、しかも、ダイジェストではなく試合すべてを、見直す。
「いつから、そういうことを始めたのか、と言われても、これはもう習慣のようなものですね。今は、代表の試合もリーグも、次から次へとありますからね。すぐに見直して、しっかりと頭にたたき込んでおかないと、流されてしまいますから。もっとも、みんなも観てると思いますけど」
 そう言うのは簡単なのだが、代表の試合ともなれば、中継も、地上波と衛星、両方で行われることもある。両者はアングルも違えば、解説者のコメントも違う。だから、同じ試合を二度観る。みんな観てる? いや。だれも、そんな面倒なことなどしていないだろう。
「観て確認したいのは、試合全体の流れと、選手それぞれの動き、その両方ですね。相手の動きはもちろん、チームのそれぞれのポジション、みんなの動きは、細かい部分まで観るようにしています。特別なことじゃあない、それを把握しておくのは、自分の仕事のひとつだから」
 井原は、現在の代表の若手選手たちに、何を注意するべきかを、口で伝えるよりも、いかに言わずに、自分で実行させるか、そちらを考える主将なのだ。膨大な情報量でチームを把握し、個人のプレーを、あるいは性格を見抜いてはいるが、あえて言わない。だからキャプテンシーが希薄だと評され、最近は衰えが目立つと指摘されることも多い。
「そういう意見も、大いに励みになりますから」
 反論は必要ない。

 さて、敵陣視察に来たジャマイカのシモンエス監督、こちらも膨大な情報から対戦相手を研究する。
 では何を最初に、観るのか?
 監督は言う。
「キャプテン。そのチームのすべてを、もっとも雄弁に語る存在だから。日本は、DF四番イハラ。ジャマイカが一番欲しいものを持っている。それは経験とプライド」
 ここまで十年で、Aマッチ数百十三。現役イコール代表でいること。井原はそれに、こだわり続けている。

週刊文春・'98.3.19号より再録)

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