アテネ五輪期間中連載コラム

「室伏なら康生にかける言葉を知っているだろう」


アテネ五輪
第9日
 もしかすると、この人が一番、今の彼の気持ちを深いところで理解しているのではないか。
 陸上ハンマー投げの金メダル候補・室伏広治(ミズノ)が20日の予選を1投目で、どこにも力みのない姿で通過するのを見ながら、彼なら井上康生にかける言葉をきっと知っているんだろう、ふと、そう思った。

 見事な体格を除くと、記録競技に格闘技、屋外競技に屋内競技と共通点はないように見える意外なコンビは29歳と26歳、本当に仲がいい。代わりに練習への姿勢、競技者としての哲学、勝負への信念、父の指導を受けたこと、多くの共通点もある。
 4年前、ともに初出場だったシドニー五輪、井上が決勝に挑もうという朝、たった一人で食堂に居た姿を、通りかかった室伏が見つけて声をかけたのがきっかけである。日本のスポーツ界をけん引するような選手が、自分に声をかけてくれたなんて、と井上はそれだけ舞い上がるほどうれしかったと記憶する。以後、まるで遠距離恋愛を育むかのように、連絡を取り、ときには食事をし、互いの競技、トレーニングといった話に没頭しているうちに、すぐに時間を忘れてしまうのです、と2人から聞いた。

 先月、井上が五輪代表の結団式で宣誓に詰まった沈黙のあとも、後ろで聞いていた室伏はすぐに電話をかけている。
 さすが選手団の主将だね、後ろで聞いていたみんな、「康生がんばれ、落ち着け」って、初めて会ったようないろんな競技の選手たちが小声を掛け合って、終わってみたら不思議に気持ちがまとまった感じだったよ。すごくいい宣誓だった。緊張しない人なんて、いるわけないよ。

 室伏の言葉には、どこか重みと温かさが漂っていた。そして、かつてない好成績に沸く300人の主将であること、宣誓で詰まったことは、あのとき「康生らしい」と周囲が笑い飛ばしたような出来事ではなかったことを、室伏は理解していたのだ。

 19日、「申し訳ありません」と謝った井上のことが、日本の好成績よりもなぜかずっと気になっている。肉体に、精神に起きた異変の理由が。
 22日、楽しみにしていた室伏の決勝、応援に行くだろうか。

(東京中日スポーツ・2004.8.21より再録)

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