アテネ五輪期間中連載コラム

「強くて優しい「兄」」


アテネ五輪
第7日
 妹だけど、阿武教子(警視庁、柔道78キロ級)だからニックネームは「アンちゃん」、本当のあんちゃん・貴宏からプイ、と顔を背け、ふくれている。稽古中、受け身が、つまり兄の「投げられ方」が上手くなかったので、気分が良くない。妹のおっかない顔に、兄は申し訳なさそうに立ちつくし、リラックスしたきょうだい喧嘩のユーモアに、周囲も思わず吹き出している。

 野村、田村のW金メダルで怒涛の先陣を切った柔道の練習場は、18日も自信に満ち溢れた空気が漂っていた。本日もまたW金の予感。阿武にも、連覇を狙う井上康生(総合警備保障)にも、強くて優しい「兄」がいる。

 世界選手権4連覇の阿武も、五輪では過去2度、信じ難い初戦敗退を喫した。今回初めて、兄が付き人として同行している。
「兄には、私が緊張して回りが見えなくなるのは当然だけど、兄ちゃんまで緊張しちゃダメだよ、私を笑わせないと、って言ってるんですが、真面目だから下手なんですよね」
 阿武の笑顔は、五輪で初めて見たと思う。

 井上の兄・智知も投げられ役。彼らはいわばバッティング投手である。綺麗に、リズム良く畳に投げつけられることで、主役を盛り上げ調整させる。この役、相手の力を体中で包み込む様な、体の柔軟性が重要という。
「これまでにないほど、兄が投げやすいんですよ。さては受け身の調整をしたな」と、阿武同様、末っ子・康生はやんちゃだが、それでいい。その話に、「はい、体を柔らかくするため、毎日お酢を飲んでます」と笑う兄が、シドニー五輪準決勝前の話をしてくれる。

「康生も少し緊張してたんで、ヨシ、オレが対戦相手の特徴を見せる、しっかり研究しろ、と冗談で関係ない軽量級や特徴的な選手の物真似をしたんです。アイツ、腹抱えて大笑いして、アニキありがとう、えらい参考になったわ、と。付き人ってそんなもんです」

 そんなもん、は、しかし誰にもできやしない。その瞬間が訪れたら、「ボケ役」をまっとうした兄2人は身を隠し、きっと一人で泣くのだろう。5歳下の妹も、3歳下の弟も、幼いころから体中で包み込んで来たのだから。

(東京中日スポーツ・2004.8.19より再録)

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