賞金稼ぐブブカの狙いは

    「チェルノブイリ」への基金づくり
    8年後のいま、現実味帯びて


芝生席からの風景

「では、今ごろは……」
 3日、陸上の日本選手権が行われていた静岡・草薙競技場は、晴れ渡っていた。ここのバックスタンドは芝生になっており、取材をするにもついつい、気持ちの良い芝生の方に足が向く。スタノトから見るのと、グラウンドとほぼ同じレベルで競技を見るのとでは、何か違う。
「では、今ごろは、『親方』とお呼びしていたかも……」
 冗談めかすと、ハンマー投げの前・日本記録保持者にして、現・日本記録保持者の父・室伏重信氏(中京大教授)も笑い出した。
「いやいや。それでも、相撲に入門しようと決心し、どの列車で上京するのかまで決めていたんです。相撲の方が才能はあったなあ」
 最近、横綱・若乃花の負け越しに関して、再起を促した時津風理事長の名前を盛んに目にし、室伏氏が、中学卒業時に、時津風部屋から熱心な勧誘を受けた、という話を思い出した。
 中学3年ですでに178センチ、町内相撲大会で成人も投げて優勝し、噂はすぐに部屋に届いた。4度もの熱心な勧誘があり、巡業にも行った。しかし同じころ始めた砲丸投げ、三段跳びでも頭角を現し、結局、高校を卒業し、入門しようと思い直し、進学したのだという。
 アジアの鉄人、と称された最強のアスリートである。もしもあの時汽車に乗っていたら、と、昔話が弾んだ。
 話に夢中になり、気がつくと目前で棒高跳びの準備が始まっていた。
 ふと、バックスタンドの同じ場所に座って見た光景がよみがえる。
 1991年、例年国立競技場で行われていた国際競技会が、改修工事で草薙に変更された。世界記録保持者が出場するものの、競技場の「のどか」さのためか、緊迫感に欠けた。
 ところが、のどかな競技場で、世界的にも数少ない、「1日2つの世界新記録誕生という「歴史」が刻まれ、慌てふためいた。
 1つは槍投げのラティ(フィンランド)の記録。そしてもうひとつ、芝に座って目撃したのが、棒高跳び、セルゲイ・ブブカ(ウクライナ)の、6メートル7の世界新だった。
 '91年、世界選手権の直前に旧ソ連が崩壊。批判を浴島びながら、ププカは有力選手としては最初に西側メーカーと個人契約をする。ポール1本で6メートルの高さ、あるいはそれより高いさまざまな「障害」をも、怒りにも似た迫力で跳び越えていた。賞金狙いといわれ、事実、高額賞金券をにした時期である。
 ウクライナ・キエフ出身、つまり「チェルノブイリ」の原発事故を経験している。
「被ばくした子供たちの検査・治療はまったく進まず怒りを覚える。自分は、検査を支援してくれる国や組臓作りのための基金を作る」。あの時ブブカに聞いたのは、思いもかけない話だった。長い間、それは「他人事」たったが、あれから8年たち、同じ観客席に座った今、皮肉にも現実味を帯びて感じられた。
 芝生から見る競技場は8年前と少しも変わらない。
 そして終わったかに見えたブブカも、シドニー五輪は諦めないと宣言している。

(東京新聞・'99.10.5朝刊より再録)

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