“国の誇り”見る楽しさ

    世界陸上の魅力


 町の中心地にある気温計の針が、今年は振り切れて壊れてしまうことも、まだ一度もないそうだ。今年は例年に比べて涼しい。日中は40度を超えるが、それでも湿度が40%前後と、風は肌に心地よい。
 今年で7回目を迎える世界陸上選手権を取材するために、「アングルシア地方のフライパン」と表現されるほど暑いセビリアにいる。
「ここに来る前に……」
 男子1500メートルで、前回のアテネ大会に続く2連覇を狙う若きエース、エルゲルージ(モロッコ)は、自国語で会見に応じていた。
 スピードと持久力と、その両方を兼ね備えてなければならない中距離選手は、「ランナーの中のランナー」などと敬称される。モロッコのハッサン国王がポケットマネーでつくり上げた陸上中距離の練習キャンプで育った、いわば王様の秘蔵っ子でもある。
「じつはここに来る前に重大な病気になって。その病気というのは」
 コーチが英語に訳すのだが、病名のところでピタッと止まってしまった。
「え−、病名と症状について、私には訳せません」と言われたために、余計に気になる。通訳氏は恥ずかしそうにうつむき、英語の単語を書いてくれた。
 痔、である。実際出場はピンチだったが、国王がわざわざ世界的な権威を国に呼んで治療を助けてくれたために、この大会に間に合った、とばか正直に説明をしていたのだ。通訳が200人もの報道陣を前に訳せないのも当然だろう。しかし中距離世界王者を国の誇りとし、そのためには国王が痔の治療までする、こんなことは、私たちの常識ではちょっと考えられない。
 陸上を取材していて面白いのは、むろん記録の更新である。彼らが記録に挑む姿はそのまま、人類そのものの進化への挑戦である。限界を超えてゆく様には、スポーツの原点、ともいえる単純で、だからこそ揺るぎない強さが満ちている。
 そしてもうひとつが、参加国の多さと、人間の多様さである。陸上を取材しなければ、決して知ることのなかった国は数知れない。
 女子800メートルで金メダルを狙う'93年大会の女王マリア・ムトラ(26歳)。彼女の存在がなければ、やはり「モザンピーク」を知ることはなかったと思う。アフリカのこの国では、長い間内戦が続き、とてもスポーツをやるような環境にはなかった。
 彼女はそんな環境下でサッカーから陸上を始め、200メートルから3000メートルまでの国内記録を保持する。同国の唯一の女子選手としての責任を果たし続ける選手である。
「これが最後の世界選手権になると思う。母国の子供たちのためにも、金メダルを持って帰りたい」
 スタジアムのミックスリーンでレース後久々に会うと、彼女は陸上で得た賞金などを子供たちのスポーリクラブ建設につぎ込む、と教えてくれた。
 世界にはいろいろな国がありいろいろな選手がいる。陸上では見知らぬ国の選手にさえ魅かれる。ユニークな選手たちと話し、彼らの見事な肉体を見ることは、無類の愉しさである。
 たとえフライパンの上であっても我慢できる。

(東京新聞・'99.8.24朝刊より再録)

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