自転車「英雄」談義に花咲く

    パソコン不通の幸運


 四方を山に囲まれ、山からの澄みきった雪解け水が川を流れ、街中に花があふれる。まるで、ヨーロッパの豊かな夏を象徴するような美しい避暑地・イタリアのモエナという街にいる。
 セリエAベネチアに移籍した名波浩の取材で、恐らく疲労のピークであろう彼もチームになじみ始めた……と、ここまでは完ぺきなのだが、ここから先は情けなくなるほどである。
 電話回線が良くない。
 世界中どんなところでもパソコンから原稿を送ってきた実績だけはあるのだが、今回はかなり苦しい。
こんな美しい街で、ロッジ形式の各ホテルをパソコン抱えて回り、「すみません、お宅の電話回線、ちょっと使わせていただけますか」と、怪しい懇願をしている始末である。
 今週からは観光のトップシーズンでもある。こんな間の抜けたことをしている人は、ただの1人もいない。
「どうしたんです? 悲しそうな顔で」
 ロッジでぼうぜんとしていると、レース用自転車を背負った集団がホテルに戻ってきた。彼らはツールドフランスでも、ボランティア的な仕事をしたそうで腕前はプロ級。山を2つ越えてモエナヘ来たそうだ。
 ここは自転車の絶好の山岳コースでもある。看板には、「自転車優先」と書かれ、色とりどりのユニホームで人々が急こう配を抜けていく。
 欧州では自転車がトップスポーツである。ツールドフランスが行われる時期、欧州全土で「だれがマイヨジョンヌ(ステージごとの優勝者に与えられるシャツ)を着るか」に勝るニュースを見つけることは困難だ。
「今年のツールドフランスは最高だったね。何たって偉大なる復活、を目前で見たんだ。観客の熱狂も半端じゃなかった」
 ジョゼッペさんという50歳の男性と仲間たちは臨場感あふれる情景描写とともに楽しそうに話しだした。話題の中心は1人の米国人。睾丸(こうがん)から肺、脳にまでがんが進行し、医者によれば「彼を失望させないために、生存率は50%と言った」という、最悪の状況にいた選手である。
 この夏のツールドフランスを制したランス・アームストロング(27歳)の話題は、今もまだ、自転車を愛する彼らの心をとらえて離さない。
「今回は必死で応援したさ。彼は明るいんだ。タフだよ。点滴を受けながら、ロックを聴いてたっけ」
 偉大なる復活、信じがたい逆襲。彼らは楽しそうに、それを可能にする方程式があると断言し、そして「適切な治療×闘争と愛情×勇気の2乗だ」と言った。
 電話のことは不運だと思っていたが、パソコンを抱いて歩いたからこそ、イタリアの片田舎でスポーツとおしゃべりと自然が好きな彼らと、偉大なアスリートの話に熱中できたのだ。これは幸運だった。
 怪しい記者がモエナにおける日本人の評判を落としている気はする。しかし、名波がその何倍も、日本人の評判を高めるだろう。
「勇気の2乗……ね」
 その言葉を繰り返して、そびえる山々を振り返った。

(東京新聞・'99.8.3朝刊より再録)

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