第4回 英国人と1本の芝


「ハックニー・マーシュ」という場所を聞いたことがあるだろうか。
 ロンドンの中心から車で30分ほど南に走ると、白いゴールポストが点々と見える広大な土地が見えてくる。ハックニーは、「ハックニー地区」を指す土地の名前で、「マーシュ」は湿地帯を意味する。芝ではなく、牧草だが、全面に植えられている。すでに何年も使用しているためにかなり薄はげてはいる。しかし、ピッチには白線も惹かれ、100面を悠に取ることができる。100面ものピッチ、ゴールポストを一度に目にすることなど、日本では考えもつかない光景である。
 5月、ある仕事のために、欧州のスポーツ環境をめぐる現状を取材に回った。そのうちのひとつだったイングランドでは、ロンドンから郊外に1時間ほどの所にある僧院を改造して建設された、国立選手強化センターで、同時にサッカーイングランド代表の合宿拠点でもある施設の取材もした。こうしたエリート強化とは正反対の立場のコンセプトで維持されているのが、ハックニー・マーシュのような「草サッカーのパラダイス」である。
 サッカーでの使用は初夏まで。イングランドでは、トップだけではなくて、こうした草サッカーレベルでも、芝の養生や健康、あるいは天候を考慮した上での完全なシーズン制が徹底している。6月からはクリケットの使用に移行するという。サッカー、クリケットを1シーズンのメインにして、ほかにもラグビー、最近急激に人気を集め出したというソフトボール、特に組織だっていなくても、ゴルフをやる人々の姿はあるし、ピッチの合間を縫って犬の散歩も禁止されていない。
 ここは地区の区役所の管理下にある公園で、地区に住む人間、あるいは住んでいなくても、申し込みさえすれば誰でも使用できる。使用料は、1試合で50ポンド、約1万円。早めに申し込んで前払いをすれば37ポンドで、リーグ戦のように日時、期間を限定してすべて予約できればさらに使用料は割引されて30ポンドになる。1チームで15ポンド、選手一人にして約1ポンド程度、200円足らずで毎週試合ができる計算になる。
「借りようにも、かなり前から予約をしないとならない」
「仕事があるから、先の予定は立てにくいし、ましてや抽選なんて行けやしない」
「フットサルにしても、夜などは室内の照明料金も加わるので割高になる」
 草サッカーのヒーローたちに、こんな悩みをよく教えられる。日本ではサッカーだけではなくて、野球でも似たような状況になるわけで、同じスポーツを楽しむ行為にこれほどの格差が生じることは、その国をGNP(国民総生産)でははかり切れないことを意味しているのではないだろうか。
 ハックニー・マーシュは週末の朝10時から11時までの間に、それぞれの責任で必ずキックオフされることが決まっている。これは管理上の問題からだが、いずれにしても10時前になると、公園の周囲には路上駐車があふれ、小さくて古いクラブハウス、と呼ぶにはあまりに簡素な建物だが、ここに人々が車で集合する。受け付けをする間も、いい歳をしたおじさんたちがリフティングをし、若い人たちはサッカーを始めてしまう。家族も同行しており、こちらは荷物番。近くに出される屋台では、コーヒーやサンドイッチ、アイスクリームが休む間もなく売れて行く。
「それにしてもピッチ100面でしょう。もしもきょうは75番ピッチだ、と言われたら、どうするの? 遠いではないですか」
 クラブハウスで受け付けを済ました一人に聞いた。
「確かに困るよね。ただ、そういう時には、ピッチまで走ってそれをアップ代わりにするんだ、いい運動だけど」
 あまりに広いために、キックオフまでに対戦相手と会うことができなかった、相手を間違えた、そんなハプニングもあるそうだ。
 彼はインドからの移民のチームに所属していた。ほかにもアラブ、トルコ、アフリカ、アジア、イタリアなど本当に数え切れないほどの人種と言語が凄まじい勢いで飛び交う。無論、いい話だけではなく、ハックニー地区自体、現在治安の悪さが問題になっているともいう。役所はしかし、治安が問題だからこそ、とピッチの維持に努め、世代を超えてサッカーやスポーツを楽しめる環境を保持することに公費を使っている。

 100面のピッチが並ぶほぼ中央で、今シーズン最後、草サッカーの栄えある優勝クラブを決める王座決定戦が行なわれていた。
 主審はいるが、ラインズマンは近所のおじさんがボランティアで務めている。
 愛好家的なムードが漂う中で、この両チームだけはユニホームも本格的で監督やマネジャーも控えていた。特に引き分けでも優勝というクラブ側の気迫は、「人々がサッカーを心から楽しむ」などというお決まりの文章で表現するには失礼なほど、レベルも高く、しかも極めて真剣だった。
 スライディングもするし、監督は怒鳴る。ピッチの白線に沿ってボールが移動する度に、全員が歩きながら移動する。怪我人が出れば、トレーナーが処理をし、ハーフタイムには青空ロッカーでキャプテンが「やる気があるのか。優勝がかかっているんだぞ、この下手くそども!」と絶叫した。
 5月とは思えないほどの気温と北風の中で試合は終了、優勝を決めてシャンパンならぬミネラルウォーターがけも行なわれた。草サッカーのシーズン約半年がこれで終了となり、リーグは入れ替えもされ、新たに秋以降、ポストにネットが張られる。
 英国では、レベルがどうあっても、必ず90分でゲームが行なわれる。行政、仕組みは100面のピッチを実現するための最大の条件だ。そして、90分という時間を貫く人々のサッカーへの愛着が、ハックニ―マーシュの土壌を不朽にしている。驚くのは、100面のピッチの存在よりも、これがすでに30年以上に渡って組織的に管理され、守られてきたことのほうである。
「イギリス人の心臓には1本の芝が生えている」
 ピッチを後にするとき、イングランドのそんなことわざをふと思い出した。

(Getoto・vol.4より再録)

BEFORE
INDEX