2003年4月6日

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★Special Column★

「In My Life」

 日曜の朝だというのに、5時半に起床して自宅を飛び出し、羽田から始発の飛行機を目指す。こんなことをすでに20年近くもやってきたのだから、特別な感情は湧いてはこないが、実際のところ、休日だった日曜日は一体何度あったのだろうか、などと、モノレールから桜を観ながら考えてみるが、いい思い出が浮かぶはずもない。仕方ないので、私をこんな迷路に踏み込ませたスポーツ新聞の束を抱いて飛行機に乗ることにする。
 飛行機の時もあれば、新幹線の時もあるし、車の場合もある。しかしとりあえず、私が常に胸に抱いているのは、ぬいぐるみや、花束や彼の写真ではなくて、スポーツ新聞であることに変わりがない。
 機内で「今日のスポーツ」欄を確認し、Jリーグの結果を読んで、プロ野球の個人成績を確認し、占いを読む。
「大車輪の日。振り回されずに考えることが重要」
 スポーツにかかわってから、スポーツに振り回されない、車輪が回らなかった日も一体何日あったのか考えて、笑ってしまった。
 例えば2003年4月6日は、私にとって普通の、しかし、一般的に言えば大車輪の日であったと思う。
 シドニー五輪金メダリスト3人が、アテネ五輪での連覇と、五輪3連覇の偉業に向かって歩みを始めた日であり、まだスタートしたばかりのランナーもいれば、完全復活といえるような手ごたえを得た柔道家もいれば、敗戦を味わった柔道家もいる。
 彼らを違う場所で、一日に取材するなどという、全く普通ではない、だけど自分には普通の日の不思議な幸運と、贅沢と、恐ろしさを多少かみしめて。

 羽田始発の飛行機で佐賀空港に降りると、まだ桜が咲いていて嬉しくなる。そのままタクシーで総合運動場に到着すると、多くの市民ランナーと、それを上回る数のカメラに囲まれた高橋尚子の笑顔が小さく見えた。「さが桜マラソン」で、久々に表舞台に登場し、今月、5月と、週末はこうした市民ランナーのイベントに参加して、6月のボルダー合宿までトレーニングを行うという。
 積水化学を退社して以降、難航していた──もちろん難航とは殺到したために難航していたのであって、見つからないからではないのだが──スポンサーもようやく2社に絞られ、今月中には発表の運びであると、彼女のマネージメントを行うIMG担当者が現状を説明する。気温は17度にもなり、高橋は半そでに、バミューダ丈のパンツ姿になっていた。
 肋骨の骨折で日々、胸の周辺をかばうように前かがみに過ごしていた高橋の背筋が、どこか弾み、明るく、強く伸びているように見える。秋口の骨折はことさら辛かったはずだ。
「選考レースと(今年11月の東京国際を予定)もし勝てればオリンピックと、2レースはたとえ1kmだって失敗は許されないレースになった」
 骨折で昨年の東京を欠場した時点で、高橋はそう腹を括っていた。こうしたイベントで笑顔を振りまくその後ろに、彼女のレースと全く同じ「腹の据わった」覚悟がのぞく。リラックスした笑顔の分だけ、自分をどこまでも追い込むことができる、そういうランナーは、拳ではなく、二本の足だけでライバルをノックアウトする。奇しくもこの日、アテネ五輪マラソンのスタート時間が決定した。2003年8月22日(男子は29日)午後6時。

 高橋がファンランを終えてから行う会見を待たずに、タクシーで佐賀駅に向かい、博多行きの特急に乗る。今年9月、大阪で開催される柔道世界選手権の選考会となる「全日本選抜柔道体重別選手権=男子」(福岡市民体育館)が行われるからだ。
 山桜や菜の花を見ながら博多駅まで40分、駅から体育館に入ると、もっとも軽い階級、60キロ級で、野村忠弘とライバル徳野和彦の試合がちょうど始まったところだった。
 すでにアトランタ、シドニーと連覇の偉業を果たした野村は、昨年復帰した。シドニーでは、自身の連覇という偉業の瞬間と、田村亮子の初の金メダルとが、ともに軽量級なのでスケジュールが重なる。そういうめぐり合わせに、それでも柔道家として、男として、堂々と振る舞ってきた。
 これが復帰3大会目で、まだ国内では2大会目である。まだまだ試合カンが戻らない、何より自信がないのだと話していた小兵は、5分の試合が終わって決着がつかないために、「先にポイントを奪ったほうが勝ち」という、柔道のGS(ゴールデンスコア)に突入し、青ざめた顔をしている。徳野とはもう何十回、タイトルと名誉と意地をかけて戦って来たことか数えきれないだろう。2人は一歩もひかず、結局試合は決着がつかず10分にも及んだ戦いは旗判定にゆだねられた。
 野村は、旗2本で勝ったが、アクションしなかった。できなかったという方が正確だろう。体の震えと、血の気の引いた真っ青な顔で受けた速報インタビューは、10分の柔道がもたらす地獄と、野村にとってのある天国の存在を浮き彫りにするものだった。
「復帰してから、この半年はやればやるほど自信を失って行く、そういう毎日でした。今日は選考がかかっていたから負けられないというのはわかっていたが、試合前はこう考えていました。負けてもいい、オレにはアテネがあるのだから、自分の柔道を出し切ろうと。復帰して初めて、ある部分の自信を得ることができました。もっともっと追い込んでいかなくてはならない」
 目の前から映像が消えて行くほど追い込んだ時にだけ、自信が生まれる世界、地獄でつかむ天国など考えたくはないが、金メダリストはそれをやらなくてはならないということだろう。
 無数の選手が自分を倒しに来るとわかっているディフェンディングチャンピンは、ビデオなどで相手を研究するといった客観性を持てない。世界でもっとも苦しい練習を積み続けたのだと言い切れる、究極の主観だけが頼りであるから。
 10分の試合が、どれほどの苦しさだったかを野村に聞きたかったが、試合後、通路で見かけた姿に、やめた。試合後1時間以上経過しているのに、まだ目がうつろで、顔から血の気が引いたままであった。

 ◆柔道世界選手権代表

  60キロ級  野村忠弘(ミキハウス)
  66キロ級  鳥居智男(了徳寺学園)
  73キロ級  金丸雄介(了徳寺学園)
  81キロ級  秋山成勲(平成管財)
  90キロ級  矢嵜雄大(明治大学)
 100キロ級  井上康生(総合警備保障)
 100キロ超級 棟田康幸(警視庁)

 およそ3年ぶりの敗戦で40連勝がストップした時、会場にいた誰よりも首をかしげていたのは井上康生(総合警備保障)その人だった。
 伸び盛りの鈴木桂治(平成管財)との対戦は五分五分。専門的に言えば、鈴木が徹底的に、天才的と表現される井上の組み手を封じようとし、特にこの対戦に関しては、「井上のつり手をいかに殺すか」をテーマに、5分を限界まで使い切った。井上は、それに苦戦したようにも見えるし、そうでないようにも見えた。オール1本勝ち、や、柔道で表現されるおおらかさや大胆さ、積極性がなかったように、素人には見える。波乱などというのは、鈴木にも、井上にも失礼だろう。
 先に指導を受け、効果を奪われ、世界柔道の2階級制覇(100キロと無差別)アテネ五輪連覇、これらを固めるはずの足元が揺らいだ。

「研究されていたとは思ったが、いけると思っていた。なぜ行かなかったんだろうか。組んだ時も、力は感じなかったのに、なぜ自分が守りに入ってしまったのか。相手の技とか、重圧ではなかった。なぜ守りに入ったのかわからない。気持ちの面で負けていたのでしょう」

 納得のいかない敗戦を、どう自分に納得させるかなのだろうか。この大会を前にした会見で、「自分で自分をどこまで追い込めるか、が大事なんだと思います。孤独を感じることもあります」と、勝ち続けること、それを守り続けなくてはならないことについて、ふと口にしていた。敗戦がバネなどとは平凡すぎる。この敗戦で、世界もまた色めきだっているに違いない。しかし、この大会でひとつの目標に向かってスタートしたに過ぎない。アテネの連覇を目指すなら、まだ5キロ地点にも達していないのだと思う。

 取材を終えて、今年から福岡で教鞭をとることになった陸上四百メートル障害の、元日本記録保持者、山崎一彦に電話をしてみる。日本の四百メートル障害を世界的なレベルに引き上げたパイオニアであり、もちろん良い指導者になる人物だと期待をしている。
「今日は退任される方のパーティなんです。もう残念だなあ、来るなら前もっておしゃって下さいよ」
 すみません、前もって、が苦手である。
 結婚し、声にはなんともいえない明るさが漂っている。
 地下鉄天神駅のすぐ側のモールで、引退したサッカーの元日本代表キャプテン、井原正巳の「井原展」が開催されていると聞いていたので、地下鉄に乗る前に駆け足で見に行く。子供の頃の写真を見ながら、電話をしてみる。夜はNHKに出演するそうで、準備で忙しいのだろう。留守電だった。
「あ、井原? 今、井原展を見ています」
 ほとんどいたずらのようなメッセージだけ残して、空港に向かう。
 シドニーで金メダルを獲得したのは、4人(あとひとりは柔道の滝本誠)。うち3人が同時にスタートを切った日、佐賀の運動場にも、市民体育館にも、満開の桜の大木があり、その迫力に立ち尽くした。
 圧倒的な強さ、美しさと、切ないまでのはかなさが同居している姿が、まるで彼らを現しているかのようで。



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