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※無断転載を一切禁じます ★Special Column★ 「得点操作という事実の重み」 8日、京都で行われたJリーグナビスコカップの京都対大分戦で、得点をめぐる混乱が起きました。私は横浜国際スタジアムで取材をしていたため、ニュース、新聞、テレビ(映像は見ていない)で評論や解説、記者の目といったものは読んではいるのですが、メディアだけではなくともすればJリーグやサッカー協会、当事者たちも、今回起きた事態の、問題の本質を説明する論点が大きく違っているのではないかと考えています。多くは、「フェアプレー精神」「不測の事態」こうしたまな板の上で料理されているからです。 しかし「フェアプレー」という観点や「ファンが不在」といった良心、再試合に該当するかという技術論は、どれも争点から遠いのではないでしょうか。「個人の精神」について、フェアプレーや、アンフェアプレーかを検討することはそう難しいことではないと思います。ピッチで、大人である選手たちが「結果責任」において解決できるものであるからです。 「Jリーグは賭けのためにやっているのではない」と関係者は話しています。「不測の事態こそ、サッカーの、スポーツの魅力だ」と、表現を変えた言い方もしています。その通りなのです。その通リだからこそ、それが前提だからこそ、トトの、トトゴールの対象になり得る。これが、鉄則です。 「得点操作」という、ある意味の専門用語が、ほとんどのメディアの評論でまだ出ていません。しかし負の意味で成熟したスポーツにおいて、この「得点操作」という単語の持つ意味、罠とトリックがどれほど巧妙で危険に満ちたものかは、過去、競技、国を問わず、みなさんの方がご存知ではないかと思います。あらゆる意味で、「トト」が行なわれている国で、それでも日本だけは無関係だ、とするほど能天気な解釈は許されないでしょう。関係者は常に、ここだけは疑い深く、十分過ぎるほど十分に、悲観的に考えなくてはなりません。
しかし、取材する立場からいえば、問題の本質は非常に深刻なものです。当事者たちが「明らかに」、故意に、恣意的に「得点操作」をしたという事実は、競技の信憑性を根幹から揺るがすものだからです。さらに踏み込めば、得点操作がどこにでも仕掛けることが「可能な状態」を明らかに」してしまったことだけに、あのゲームにおける最悪の問題が残るのであって、フェアプレーや、再試合を要する内容なのか、検討を要する審判の対応は、問題の外側をはかる物差しに過ぎません。
ところが今回は、当事者たちが理由のいかんを問わず「得点操作を」自らしてしまったわけです。監督の意図を全員がああした形で実行に移し、ファンにも明らかに見える形で「得点操作」を行なった事実だけが問題なのです。リーグや関係者が言う「不測の事態」といった前提と今回の結果は正反対でした。「賭けのために操作ができる」という負の側面を、無意識の過失だったとしても明らかに見せてしまったのですから。簡単に言えば、誰かの意図や故意によって、スポーツは、サッカーはこれほどシラけたものにできてしまうということを、何よりファンの目前で披露してしまったことに、私は危機感を抱いています。
もし、あの試合が普通の、シーズン開幕を告げる昇格元年のチームと、天皇杯を制した若いチームの一戦ならば、問題は、監督も含めてすべてにおける未熟さ、いわゆる「ドタバタ騒動」だった、と説明ができます。しかし、あの試合は、事実として、多額の金銭が動く「対象」だったのです。この事実に対して、得点操作を当事者たちが恣意的に行なった試合を、トトゴールの対象にできるはずがありません。何よりも、トトゴールが始まった日に、こうした最悪の事態が起きたことを、関係者こそ重く受け止めて欲しいと思います。間違っても、「あれはフェアプレーの返し」「試合は成立している」などと、的外れな着地点に立つべき話しではないのですから。
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