10月13日

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総合

第14回アジア競技大会(2002/釜山)
第15日
(韓国・釜山)
気温:23.7度、湿度:59%、出場:11人

 金メダルの期待がかかった女子マラソンは、気温24度から29度と高温の中で行われ、今大会に向けて高地トレーニングを積んだ大南博美(UFJ銀行)、女子の長距離第一人者弘山晴美(資生堂)の2人は、気温と牽制をしあう超スローペースの展開でハーフまで並走を続けた。
 気温が上昇しはじめたハーフポイント過ぎ、大南がペースをあげ、これを、アジア選手権五千m、一万mの覇者で、シドニー五輪では8位に入賞している北朝鮮のハム・ボンシル(北朝鮮)が追走、レースはハムが大南の後ろをぴったりマークするマッチレースとなった。大南は、大会前に体調を崩した影響からスパート後もハムを振り切るスピードはなく、さらにスパート後の10キロ間で、給水を満足な形で取れないまま走った影響が出て、32キロ過ぎ、ハムに脚をかけられた後、ゼネラルテーブルでの給水で一気に離されてしまう。マメができたことも影響して、この後は大幅にペースを落としてしまった。
 一方、ハーフで置き去りにされてしまった弘山は、すべての給水を冷静に取り続けて、逆に大南を33キロ過ぎで拾って2位に。ハムを追い続けたものの、最後は練習不足から追撃は及ばなかった。
 ハムは、高温の中のスローペースで我慢のレースを2時間33分35秒で制して金メダルを獲得。弘山は2時間34分44秒で銀メダル、大南は2時間37分48秒で銅メダルだった。
 同じく金メダルが期待された男子四百mリレーは38秒90で2位に終わり、大会3連覇を逃した。また、千六百mリレーは男女とも4位に終わり、メダル獲得はならなかった。陸上競技はこれで最終日の男子マラソンを残すだけとなる。

金メダルのハム・ボンシル「将軍様が見ていると思い、将軍様に喜びを差しあげたいと思ってがんばった。一番怖いのは日本選手だと思っていたし、私とタイムが3分くらい能力の差があるので最後まで行くと勝てないと思い、32.5キロで引き離したほうがいいとスパートした。34キロからの上りがとても苦しかったし、韓国の食べ物は辛すぎてちょっと合わずにおなかをこわしてしまった。けれども必ず勝つ、と信じて走った。女子は私が勝ったので、男子は李選手に勝ってもらって統一の願いに近づきたいと思います。がんばってください。これからの目標は世界で一番になって、将軍様に最高の喜びをあげることです」
(※ハムが手首に巻いていたのは、「血書」といって、友人が自分の血液で書いてくれた励ましの言葉だという。「胆力」「闘志」と書いてあった。また北朝鮮の2人ともが腹に巻いていたさらしは、コーチによると、「腹痛の防止」のためのもので、おなかをきつめに縛っておくと、レース中の腹痛を緩和できると話していた。)

大南博美「(ハムがずっと接近して走っていたので)脚をひっかけられたら嫌だったので、前を行こうと思っていた。暑いレースなのに給水をうまく取れず、水をかけられなかったので、後でバテてしまったのかもしれません。もしかしたらレース前の疲れが出たのかも。ただ、これまでのレースで初めて、32キロまで一人で先頭を走ることができた。それは自信にもなったし、もっと練習をしなければならないので、立て直してパリの世界選手権を狙いたいです」


「銀メダルより欲しかったもの」

「まだ行ける、粘れ、粘れ!」
 40キロ地点、夫の声は聞こえていても、もうこれ以上、粘りようも、脚を進めることもできなかった、と弘山は笑いながらため息をついた。ハーフで何の抵抗もできずに置いて行かれたこのレース、残りの20キロは、5キロごとにやってくる、ゼネラルテーブル(ミネラルウォーターとスポンジ)とスペシャルドリンクだけを楽しみにしながら、一人になってからの孤独に──もちろんそれを「マラソン」と呼ぶのだろうが──耐えてきたという。
 7月の坐骨神経痛、8月の帯状疱疹、これらの影響は着実にレースのクオリティを下げていたことを本人が痛感しながら走っていたはずだ。銀メダルとなったレース後、弘山は報道陣に囲まれると、率直に、競技者として、ランナーとして、胸の内を吐露していた。

「毎回、毎回、そういうこと(マラソンの前にコンディションを崩すなど)をやっていて、今日走りながら、1度はきちっと練習をして臨まなければならない、と思いました。シドニーが終わったあと、周りを見回したら、もう同年代の選手がいなくなってしまって。もう辞めよう、やっぱりやろう、といつも気持ちがフラフラしていたと思う。体調も日々浮き沈みが激しくなったり……苦しいことから気持ちが逃げがちでした。今の私の弱い所です」

 シドニー五輪マラソン代表の選考会(2000年大阪)で2時間22分56秒、世界ランキング4位相当の記録をマークしても代表になれなかったことの「本当の」苦しみは、今年になってから弘山を襲ったと思う。シドニーが終わり、海外賞金レースも走り、マラソン1本(今年大阪国際女子)を走り、すべてを「清算」してやり遂げた今、アテネを目指すには遠すぎて、しかし、諦めるには近過ぎる、勢いだけで行けるような距離と練習ではない、こうしたもっとも中途半端な時期にある苦しみである。
 アジア大会は、弘山にとってだけではなく、コーチで夫の勉氏にとってもおそらく大きな「壁」だった。もしここで勝てなければ、本当の意味で「辞める」ことになる。そういう危機感は、これまでレースで2人が乗り越えてきたどんな壁よりも強固だったはずで、目標を心から狙えない現実はそれほど「引退」をシリアスにしていた。

 大南や渋井陽子、土佐礼子(ともに三井海上)のように若さはない。高橋尚子(積水化学)のようなタイプでもない。半分はアテネに続くパリの世界陸上への出場権をここで決めたい、しかし半分は全くわからないといった心境で臨んだレースの、決断と迷いの「ハーフポイント」を、弘山は走って前進することで乗り越えたようだ。
「もうちょっとやってみよう。アテネまであと2年、しっかり練習をしたい、走り終わってそう思っています」
 表彰式、弘山は2位の表彰台でポロポロと涙を流していた。ハムに敗れ、「自分の弱いところ」に負け、しかし、満足感ではなく悔し涙がボロボロ流れる瞬間こそ、銀メダル以上に欲しかったものだったはずである。
 パリの世界陸上の選考会となったアジア大会で、この銀メダルの評価は来年3月の名古屋ですべての選考レースが終了するまで待たねばならない。高橋はベルリン連覇から東京国際を狙い、渋井はこの夜初の賞金レース(シカゴ)を走り、土佐が来年の大阪を目指す。アテネへの出場の可能性だけではない。日の出の勢いの若手相手に、34歳になったばかりの弘山が「2年」をどう走り抜くのか、あえて、楽しみにしたい。



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