5月11日

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サッカー

Special Column
「これが僕の仕事だから」
(イタリア・ミラノにて)


 10日午後11時、イタリアの国営放送が人気番組の視聴率を落としたくないからと、バッティングしないように日時を変更するほど重要には扱われていなかったはずの「コッパイタリア」は、パルマがユベントスを1−0で下して、最高潮に達していた。
 時間ごとに雨足がひどくなり、気温は下がった。私は、中田がゴールに向かって喜びのダイビングヘッドで滑り込んで、もう数えることのできないほどの仲間と抱き合う笑顔を見ながら、98年のフランスW杯が終わってからここにたどり着くまでに彼から聞いた言葉、何より行動、結果の必然性というものを思い出していた。
 記念写真になると、最前列のカップの前にも入らず、一番後ろの外側に立ってしまう。気が付いた関係者が、自ら起点となってコーナーキックを奪った、そしてそのコーナーキックをアシストにした彼の背中を押して、前に、と促すが、笑顔でそれを断り、そう声をかけている人々とがっちり抱擁する。きっとスタッフなのだろう。選手みなが奪い合っていたカップに触ることも、おそらく彼はしていなかった。

 98年ペルージャに移籍してセリエAにデビューしたユベントス戦で2ゴールを奪い、ローマではスクデットの行方を決めたゴールとアシストを奪って、このイタリア杯でも、トリノでのアウェーで中田が決めた1点が、この日の優勝の原動力になった。ベルマーレ平塚に入った年、彼が望んでいたオフの短期研修でユベントスに来たのは何年前か。あのとき、平塚の関係者に聞いた話を思い出す。
「贔屓目なんかではなくて、彼が参加したキャンプのメンバーの中で、彼は異彩を放っていたはずだった。僕は何度も彼にこう言ったんだ。ヒデ、何か紙(契約書の類)を出されても絶対にサインしちゃダメなんだよ。いいね、必ず電話を寄越してくれよ、って」
 レストランに行くと、ちんぷんかんぷんの同行者に代わって、中田がオーダーをした。道を聞くのも、彼が簡単なイタリア語でやってしまった。
 しかしあの3週間で、結局何も起こらなかった。
 中田は当時、デルピエロ、ビアリを見ていたが、憧れや羨望など微塵も抱いて帰ってはこなかった。相手が、アジアの片隅から来たMFに気が付こうが付きまいが、中田は彼らを「射程圏内」に捉え、密かな逆襲が始まったのだと思う。
「今日は、私たちのチームも本当によく戦ったと思う。パルマも同様だ。私たちはそれぞれいい試合をしようと努力していた。先週の日曜日にあまりに高い集中力をチーム全体が必要としただけに、ほんの少しだけ、脱力感があったことは認める」
 リッピ監督は、11日の会見で短く言うと、笑顔で会見を去った。
 トリノでの1戦目では、会見が終了し立ち上がるときに、「なんだか、中田って、うちの試合ばっかり点取らない?」と、苦笑しながら馴染みの記者に声をかけていたそうだ。
 ユベントス相手に「結論」はこれまでの4年で何度も、そして11日はついに「答え」が、彼の好きな数式と同じようにクリアに出た夜だったのではないか。

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 もうひとつの答えも出た。
 10日、中田は3人が横に並ぶ恰好で、左のボランチに位置していた。試合開始から、じつによく、これまでのどんな試合でもそれは当たり前の動作だったが、特に注意深く、周囲を見渡していた。彼に見えていないピッチは、おそらくこの晩なかったはずである。それほど、守備でも攻撃でも周囲を見ていたことによるのか、90分、どれほど激しく試合が混乱したとしても、中田の周囲だけはまったく別の、落ち着いた、同時に優雅な雰囲気が漂い続けた。
「絶対に負けたくない。パルマに残ることがどんなに苦しくても、逃げるのは嫌だし、少しも悲観なんてしていない。なぜならこれが僕の仕事だから」
 昨年12月、取材のためにパルマを訪れたときに彼がそう言ったことも思い出した。根拠のない誹謗中傷、誤解されたまま絡まった政治的な意図と糸。サッカー選手として怠慢があったわけでも、コンディションを落としたわけでもないことだけが、唯一の問題だった。フロントはブレシアへのレンタルを希望し、誰もがそこで納得しかけたとき、彼は反論し、サッキ(GM)にも、自分を悪く言う人々、メディア、サポーターにも、自分が絶対に負けないのだと言うことを示したいし、わからせたいと思うと、自らの主張を通し残留を選んだ。
 どのポジションだろうが、どんな任務だろうが、結果を出すことだけに集中し、鍛錬を積んだ日々は、彼にとって特別なものではなかったが、しかし行動で示すことは、彼らにとってどれほど難しいかも真実だった。

 体で、行動で出した結果のみが問われるスポーツでは必ずしも、がんばった者が勝つわけでもなければ、努力が報われるわけでもない。それならば、話は簡単である。
 しかし中田が11日の夜見せたのは、少なくとも、選んだ試練や結果を出すことに無心に取り組んだ姿勢には、「答え」が用意されるということだ。中田がもし、「何をやっても、結局は自分の力なんて及ばないものだから」などとしていたら、この晩の結果はあり得なかった。
 答えは必ずしも望むものではないかもしれないが、昨年12月、取り巻く環境は最悪ともいえる時期に「僕の仕事だから」と言ったのは、そのことだった。スポーツという厳しく残酷な世界でさえ、「絶対に結果を出せるのだ」という正義、良心を心から信じて、前進を選ぶことだったと思う。
 そしてその困難を進んで受け入れた者には、サッカーの神様がつくこともある、ということだ。

 試合終了直後、激しくも、ひどく繊細で柔らかな感触を伴った冷たい雨は、中田の頭上で彼をもう何年も見守ってきたサッカーの、ちょっとお茶目な神様が、薄めのシャンパンでもかけているのではないか、そう思った。



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