2月22日
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◆◇◆ Special Column 〜SALTLAKE 2002〜 ◆◇◆
数字の独り言(8)
「114秒の反骨心」
ノルディック複合で、今回からの新種目でもある「スプリント」前半のジャンプが行われた。従来は、個人(ジャンプノーマルヒル、クロスカントリー15キロの総合)と団体(ジャンプに、団体4人それぞれがクロカンを5キロでリレー)だったが、今回からは、ラージヒルジャンプ(K点が120メートル)1本と、7.5キロのクロカンで競うスプリントが加わった。
五輪出場4回目の荻原健司(北野建設)は、この日行われたスプリント初日のジャンプで、K点には遥かに及ばない105メートル(93.5点)のジャンプで34位、日本人でも最下位となった。
勢いのある高橋大斗(北海道東海大学)は4位につけているだけに、世代交代の色が強く映し出される結果となってしまった。
「守りに入ってしまったのかもしれない。悔いが残るジャンプでした」
競技後のインタビューでそう話している姿を見ながら、「攻めて攻めて行きますよ」「失うものなんて何もないんだから」と、団体で2連覇を果たした92年アルベールビル、リレハンメル五輪当時のコメントを思い出した。31歳の男の額には、皺(しわ)が見える。勢いのあった昔のコメントが懐かしいとか、あの頃を思い出せというのではなく、眉間に皺を寄せて「守りに入った」と心境をストレートに発した姿に、なぜか胸を打たれた。
複合競技という存在さえ、誰一人知らなかった90年代、荻原や金メダルを獲得したメンバーは、海外をひたすら転戦した。言葉もわからない中で山小屋や地元の民宿に泊まり、もちろん飛行機はすべて超割引のエコノミークラス。荷物のオーバーなど少しもできないような中で、とにかく用具以外、自分の荷物は最小限にとどめなくてはならない。荻原たちが空港からそのままある表彰式に出なくてはならないから、と、折り紙みたいにスーツをリュックに折りたたんで帰国したときの姿を、今も忘れられない。
複合が沈滞している、31歳の荻原も限界か、世代交代ができていない、という声は当たり前すぎる。そんなことよりも、彼がすでに12年にもわたって、日本のこの競技への興味を引き止め続けていることに、驚きと尊敬の念を抱かずにいられない。昨年、最後のシーズンとしながら五輪へ再スタートを切った際のインタビューでこんな話をしていた。
「老兵は消え去るのみ、といった声もあるし、それも確かです。ただもう少しあがいてみたいんです」
何にあがくのかはわからなかったが、今はその気持ちが少し理解できる。
さまざまなルール変更、それはジャンプを得意とする日本勢へのあからさまな抵抗となるものも含まれているが、彼はその中で「変化」に対応し続けた。中でも、ジャンプで点を稼いで逃げ切るといった方式から、思い切ったチャレンジをした点を見逃したくない。
フィンランドからコーチを招聘し、クロスカントリーで逆転を狙う、そういう方式に大胆な変身を遂げようと挑んだ。10年の時代の変化にたとえ押し流されたとしても決して責められるようなことではないし、彼は競技参加者の中でも最年長の部類である。
荻原は、「あがく」と自ら表現したように、流されることも、とどまることも拒否して、逆境にぶつかって、今の位置にいる。
事実、初出場のアルベールビルから、条件の差異があるので単純に比較できないが、距離の記録は着実に伸ばしている。他国がジャンプの技量を伸ばす中、クロカンへのトライ、それは30歳を超えたアスリートにとって決して楽な選択ではなかったはずだが、それをやり遂げた。
時代の趨勢、国の隆盛、競技の流れ、ルール改正、荻原がこれらすべての「複合」を受け止めたことが「キング・オブ・スキー」の称号にふさわしいのだと思う。
92年からW杯総合3連覇、W杯通算19勝は、日本スポーツ界の財産である。
あすの距離でこそ荻原の真骨頂が見られるはずなのだ。
34位でトップとの差は1分54秒。過去の五輪でも最大の差となった。反骨の114秒。あがいてほしい。
<荻原健司選手のオリンピックでの記録(複合)> |
開催年 |
大会 |
個人 |
団体 |
1992 |
アルベールビル |
7位 |
1位 |
1994 |
リレハンメル |
4位 |
1位 |
1998 |
長野 |
4位 |
5位 |
2002 |
ソルトレーク |
11位 |
8位 |

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