1月27日

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陸上

2002大阪国際女子マラソン
兼 第14回アジア競技大会代表選手選考会
(大阪・長居陸上競技場発着、新橋折り返しコース42.195km)
気温:9.5度、湿度67%(12時10分スタート時)

 2000年のシドニー五輪代表選考会(2時間22分56秒で2位)以来2年ぶりに、大阪国際女子マラソンに出場をした弘山晴美(資生堂)が、2時間24分34秒と、自己2番目となる好記録で、ケニアのキブラガト(2時間23分55秒)に次いで2位となった。

 3キロ過ぎから1キロ約3分20秒前後で推移するハイペースの中で5キロを16分51秒で通過。レースはすでにこの時点から先頭集団が11人に絞られ、すぐに3人が脱落し9人となってしまう熾烈なサバイバルレースとなった。集団をリードし続けたのは、大阪でアフリカ女子選手として初優勝を目指すキプラガトで、弘山は集団の好位置につけてマークし続けた。悪天候が予想されたが、コース全般に気温も10度前後、また風も思ったほど強くはならなかったことからペースが上がり、15キロ過ぎて、今大会期待された永山育美(デンソー)が遅れる。20キロ手前ではメキシコのロドリゲスが落ちて、集団は7人に。その後、黒澤奈美(四国電力)、ルーマニアでリディア・シモンの練習パートナーとしても力をつけているポマックが落ちて、集団はロバ、アレム(ともにエチオピア)、キプラガトのアフリカ勢3人と弘山の対抗となった。ロバが20キロ過ぎ、逃げに入ってスピードをあげるが3人は追随せず、逆に弘山は持ち前のスピードと、コース取りの丁寧さから終始先頭をリードするような格好で再びロバに追いつく。大阪城内のアップダウンで足の弱ったロバ、アレムを置き去りにして30キロ過ぎの給水後、弘山、キプラガトの一騎打ちでレース後半を迎える。
 弘山は、30キロ過ぎから前に出てレースを積極的にリードする。これに対してキプラガトは勝負のみに徹してペースをダウン。35キロ過ぎの給水ポイントが、ペースの分かれ目となった。ともにゼッケンの末尾が1番のために(弘山は31、キプラガトは1)同じテーブルにスペシャルが置かれている。テーブルの係員らの配慮が足りなかったためか、弘山のボトルは奥の、非常に取りにくい位置に置かれていたため、手を伸ばしても取ることができなかった。その後、36キロ手前ではついにスパートをかけられ、足を使い切った弘山は、少しずつ離されていった。
 キプラガトはそのまま力強いキックと上体のしなやかな動きを維持してゴール。弘山も2年前には、シモンに逆転をされた競技場の周回コースに入っても、レースを捨てずに粘って、33歳ながら自己2番目の記録をマークして4回目のフルマラソンを走り切った。

    ◆弘山晴美の会見より:

――今日のレースを振り返ってください
弘山 前半は10キロまでは少し速いなと感じていて、リズムをつかむのが難しかったです。でも、10キロを過ぎたあたりから楽になってきて、自分なりのリズムで走ることができました。後半は30キロを過ぎて、足が少し重くなったけれども、そこからも自分のリズムで走った方がいいと思って先頭を走りました。キプラガト選手が35キロ過ぎでスパートした時はついて行こうとはしたのですが、ついて行けませんでした。それでも最後まで粘って帰ってこようと思って走りました。

――30キロから先頭を走っていました。ほかの選手の風よけになってしまった部分もありましたね
弘山 コースの最短距離をとって走っていくと、自然にほかの選手を引っ張るような形になってしまったのですが、意識して引っ張るつもりではありませんでした。確かに先頭を走っている時は風を感じました。

――30キロ地点で給水を取らなったですよね。この後、先頭に立ったのですが、意識してスパートしたのですか
弘山 キプラガト選手が前半から、給水のところでいつもいろいろと動いていて、その度に彼女は後ろに下がったりしていたので、特に私自身はスパートするという感覚はありませんでした。ただ、キプラガト選手と同じテーブルにボトルがあって、5キロ地点で彼女がボトルを取った時に私のボトルが倒れているのが見えたので、その後は注意しないとと思っていました。30キロで取らなかったのは、私のボトルが奥の方にあったからです。

――もしほかの選手を風よけにしてついて行っていたら、また違った結果になったと思いますか
弘山 結果は一緒だったような気がします。キプラガト選手の後ろ姿を見ながら、彼女の力強さを感じました。どんな展開になったとしても、結果は同じだったかも……。今の私の調子では彼女にはかなわなかったと思います。

――今日のレースを自分ではどのように評価しますか
弘山 今日のレースというよりも、練習も含めてやっとマラソンにリラックスした状態で取り組めるようになったと感じています。今日のレースは悔いはありません。最後は自分のペースで行って、こういう結果になりましたが、それは自分の力不足だと思います。

■2002大阪国際女子マラソン 結果 p(※速報値)

選手(所属)
5km
10km
15km
20km
25km
30km
35km
40km
ゴール
1
キプラガト
(ケニア)
0:16:50
0:33:21
0:50:29
1:07:19
1:24:12
1:41:16
1:58:55
2:16:19
2:23:55
2
弘山晴美
(資生堂)
0:16:51
0:33:22
0:50:30
1:07:20
1:24:12
1:41:15
1:58:54
2:16:43
2:24:34
3
岡本治子
(ノーリツ)
0:16:52
0:33:23
0:50:31
1:07:20
1:24:31
1:42:25
2:00:35
2:19:09
2:27:01

<参考>
◆2000年
2 弘山晴美
(資生堂)
0:16:42 0:33:13 0:50:06 1:06:59 1:24:16 1:41:17 1:58:22 2:15:30 2:22:56
◆2001年
1
渋井陽子
(三井海上)
0:16:40
0:33:15
0:49:56
1:06:41
1:23:30
1:40:08
1:57:05
2:15:02
2:23:11


「爽快感」

 順位は同じ2位だった。しかしゴールした弘山が最初に見せたのは2年前の、「ああ、やってしまった」という悔恨の表情とは正反対の笑顔であった。最初に発したコメントもあのレースとはまったく違っていた。
「悔いはまったくありません」
 シモンに最後の最後につかまり2秒差で2位、五輪代表の座が微妙になった2年前、それは、2時間22分台の記録と優勝、その両方にがんじがらめにされてた実に苦しいレ―スでもあった。その中で22分台、2位とこれ以上ない結果を手にしたはずが、目標には達することができなかった。
 その時の大きな「喪失感」を、弘山はこのレースで完璧に埋めて見せた。五輪のマラソン代表に漏れた後、一万メートルでは出場を果たした。しかしこの2年間、気持ちを建て直すことに時間をかけ、トラックランナーとしても再び強化し、本当の意味で弘山と夫でコーチの勉氏が求め続けていたものがあったとすれば、それは失われたレースへの充実感、そして爽快感を、何としても取り戻すことにあった。

「元気に走る私の姿を、大阪で、あの時、そしてこの2年応援し続けてくださったみなさんに見てもらえれば、と思いました。(勝負にこだわれば、という勉氏の話を聞いて)もちろんそういうことも考えていました。でもあそこで出なかったらきっとあとで悔やむと思ったんです。自分のリズムで、自分のペースでずっと走ることができた。そして最後に振り切られたとしても、今回の練習量を思えば納得できる」

 弘山のいう「あそこ」とは30キロ過ぎ。レースの後半に入る手前になって、勝負にこだわるセオリーからすると反対に、前に出ている。2人のペースを維持して我慢していれば、残り5キロ、あるいはトラックのスピードならばはるかに上のはずだ。
 しかし弘山は「自分のレースをすることに」にこだわり実行した。
 もちろん、レースが設定よりも20秒近くペースアップして入ったために、誰もが足を使い切っており、ラストまで持ち込んだところでスパートが可能だったかはわからない。何よりも、弘山がレースに求めたものが何だったのか、30キロ過ぎの勝負が鮮やかに物語っている。

 レースを競技場で見守った山下佐知子・第一生命監督は言う。
「本当にすばらしいランナーだと思います。なぜなら、絶対に、自分のレースをすること、これを譲らないからです。昨年の秋の実業団、そして神戸での一万メートル、これらをずっと見ていて感じるのは、誰も注目していないようなどのレースとして彼女は、諦めてしまう、自分の粘りを捨ててしまう、そういう姿を見ませんでした。若手と走れば先頭をリードし続ける。一人なら時計に集中する。ああいう小さな積み重ねが、この日のレースにつながったのだと思うと、日本の多くの女子ランナーにはそれができないことがよくわかります。晴美ちゃんより若くても、勢いがあっても、それがどんなに難しいことか今日は、そういう気持ちと距離の積み重ねが本当にいいレースを生んだのだと思う」

 今回は調子がかつてないほど悪かった。体調を崩し、直前の奄美合宿では病院にも通った。しかし、大阪に入る直前になって、少しずつ調子をあげている。その状態は、勉氏も驚くほどだったそうだ。
「マラソン練習を全体としてみれば今回は決してよくはありませんでした。12月の駅伝以降、気持ちも落ち込み、肉体的にもかなりきつい状態だったはずです。きょうは25分が精一杯だと思っていたんです。少しずつ、少しずつ調子をあげて、きょうのジョッグを見たら、これはひょっとすると、と思えましたね」

 勉氏は30キロ、コースの反対車線から大声で怒鳴った。
「晴美、勝負に徹しろ!!」
 大声援に届くことの無かったその声とほとんど同時に、弘山は前に出てしまった。
「だって、あれほど、今回は勝ちたい、トラック勝負に持ち込んで逃げてみたい、ってインタビューに答えていたんですよ。全然違うんですよ晴美は、言ってることとやってることが。僕までひっかかってしまいましたよ」
 勉氏はレース後苦笑していたが、おそらく、彼女の口から最初に悔いがない、と聞いて誰よりも感慨深かったに違いない。
 そういえば、2年前も「晴美、自分のリズムをキープして!」と、ラスト5キロでペース維持を促すために絶叫したら、弘山はシモンを置いて飛び出してしまった。夫婦愛、二人三脚といった湿っぽいものは2人にはまったく感じられない。いつもお互いの手法と意図がどこか噛合わず、むしろ笑いが先に来てしまう。しかしだからこそ、どんな選択でも理解し合える、そんな「呼吸」でつながっているのだろう。

 走行距離はかつてと比較しても明らかに少ない。40キロ走もしなかった。しかし、代表も、選考も特別な記録にも縛られない自由なレースの中で、弘山はランナーとしての「自由な精神」を目覚めさせたのではないかと思う。短距離からすべての距離を走破し続けてここまでやってきたランナーののびやかな精神が、レースに爽快感を与えた。弘山の自由な精神、自然に足を運ぶ感性や女性ランナーとしてのおおらかな魅力、これらすべてがレースに投影されたことは、2時間18分台へと突入した高速レースの緊迫感とはまた違う、マラソンそのものの面白さを存分に味合わせてくれるものだった。

 しばらくは休養を挟んで、春からは依然ランキングでもトップの座にいるトラックに出場することになる。秋には、東京国際マラソンがパリの世界選手権選考会になる。
「今回、練習をごまかすことはできませんでしたから、キプラガトには勝てなかった。でも原因ははっきりしている分、次への手ごたえもつかめました。初めて、本当の意味でマラソンを走れた、そういう気持ちがしています」
 弘山はそう言って2年前には、涙ながらに去った競技場を後にした。花束と、2年もの間、探し求めてようやく知った、マラソンの爽快感を胸に抱いて。



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