11月18日
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陸上
2001東京国際女子マラソン
(東京・国立霞ヶ丘競技場発着、大森海岸交番前折り返し)
天候:晴れ、気温:13度、湿度:37%
風:東南東1m、12時10分スタート、42.195km
今年の東京国際女子マラソンは、世界最高記録が、高橋尚子(ベルリン2時間19分46秒)、ヌデレバ(シカゴ2時間18分47秒)と20分の壁を突破し塗り替えられたシーズンの、国内初戦となった。
今年ロンドンでマラソン初優勝を果たしたツル(エチオピア)、日本の若手では市川良子(東京陸協)、坂下奈穂美(三井住友海上)ら中堅に期待が集まった。
レースはスタートからスローペースで展開。序盤から、「このレースを一区切りに」としていた有森裕子(リクルートAC)が10数人の集団を引っ張る形で5kmを17分26秒で入り、そのまま中間点まで1時間12分6秒と、後半に登り坂があるために減速するといわれる東京のコースでは27分程度のペースで進んで行った。
ハーフを過ぎて、レースを動かしたのは、外国選手でツル、イタリアのジェノベーゼ、ロシアのティモフェエワらが主導権を握り、逆に期待されていた坂下、市川らが脱落。有森もハーフまでを自己記録に近いタイムでリードしたものの、練習量が足りないとしていた不安材料がそのままレースに出てしまった格好となった。
30km過ぎ、外国選手3人のトップ争いに絞られ、35kmからのもっとも苦しい地点とされる登り坂、39km地点でツルがスパート。今年の世界陸上、昨年のシドニー五輪と1万メートルを制したそのスピードでゴールまでを独走し、2時間25分8秒で、連続出場したこの大会初優勝、またロンドンに続いて、今年走ったマラソンに連勝を果たした。2位はロシアのティモフェエワで2時間25分29秒だった。
日本女子の最高位は、高橋尚子のランニングパートナーを勤めた赤木純子(積水化学)の6位で、2時間28分13秒のベスト記録をマークしたものの、市川、坂下らの走りが不調に終わり低調。日本女子がこの大会でベスト5に一人も入らなかったのは、89年以来12年ぶりとなった。
有森は序盤から若手を上回る積極的なレースで、10年前、同じコース(91年東京世界陸上4位)で国際舞台にデビューをして以来女子マラソン界をリードした実績とプライドにふさわしい走りを見せた。記録は2時間31分00秒だったが、休養をして、来年以降また新しい方向性を見つけたいとしている。
■2001東京国際女子マラソン 結果 |
順位 |
選 手 |
タイム |
1 |
D.ツル(エチオピア) |
02:25:08 |
2 |
I.ティモフェエワ(ロシア) |
02:25:29 |
3 |
B.ジェノベーゼ(イタリア) |
02:25:35 |
4 |
D.コンスタンテ(ルーマニア) |
02:26:39 |
5 |
M.ソバンスカ(ポーランド) |
02:27:01 |
6 |
赤木純子(積水化学) |
02:28:13 |
7 |
後藤郁代(旭化成) |
02:28:22 |
8 |
市川良子(東京陸協) |
02:29:18 |
9 |
坂下奈穂美(三井住友海上) |
02:30:29 |
10 |
有森裕子(リクルートAC) |
02:31:00 |
11 |
片岡純子(富士銀行) |
02:34:13 |
12 |
安部友恵(旭化成) |
02:34:17 |
13 |
木内美緒(関西電力) |
02:34:34 |
14 |
貴貫広子(沖電気宮崎) |
02:35:09 |
(まずはじめに)
今日はどうしても勝ちたいと思っていたし、そういうマラソンができたと思う。去年の大会ではいいレースができなかったので、今回は優勝できてよかった。ただ、理由はわからないが、非常に疲れた。
――先ほど、「疲れた」と言っていたが、それはどのあたりで感じたのか
ツル 心肺機能はまったく問題がなかったのに、どういうわけか25kmあたりから、足の方に疲れが出てきて、きつくなった。
――最初の5kmは遅いペースで入ったが、前半のペース配分についてはどう思ったか
ツル 特に速すぎず、遅すぎず、ちょうどいいペースだったと思う。
――25kmで疲れたと感じながらも、39km地点でスパートしたが、その力はどうして出たのか
ツル マラソンはどんなレースでも35kmを過ぎてからがきつい。でも35kmを過ぎたら、あとは何が何でもゴールしなければいけない。マラソンというのは、そういう競技だ。
――何故、39kmのあの坂道でスパートをしたのか
ツル 私はスピードがあるから、35km以降であればいつでもスパートをかけることはできる。ただ、今日は足の調子があまりよくなかったので、35kmを過ぎてもしばらくは何となく様子を見ながら走っていた。
――レース中もネックレスを気にしていたようだが、お守りですか
ツル 十字架なんです。体の後ろの方にいってしまったので、前に戻したんです。
――今後はトラックではなく、マラソンに重点をおくのか
ツル 今までは1万mに重点をおいていたが、これからはマラソンを第一に考えたいと思っている。次はロンドンを目指して、十分な準備をしなければならない。
――ヌデレバ選手のように2時間18分台の記録を出す自信はあるか
ツル 追いつかなければいけないと思っている。あのような記録(2時間18分47秒)を自分が出せないはずはないとも、何となくであるが感じている。ただ、そのためには十分なトレーニングをしなければいけないし、まずはそれが先でしょう。
「THE MARATHON RUNNER」
首を前に少しだけ出し、本人には申し訳ないが腰は外国選手にははるかに及ばない低い位置にあり、ストライドもない。筋肉も心肺機能も、この日優勝したツルらと比較すれば悲しいほどだろう。何もないはずの有森にはしかし、高い志と誰にも負けることのないマラソンへの工夫があった。
「特にどういうレースをしようかという構想を練っていたわけではありませんでしたが、誰も前に出ないので、なぜか私が前に出ることになってしまいました。今の自分の持っている力の中ではこれがベストでしたし、あそこまで(ハーフ)引っ張って行けるとは思いませんでした。どんな状態であっても、自分はそのレースで何かをつかもう、何かを示したいと思って臨んで来ましたが、それはできたと思います」
笑顔でそう話した直後には、沿道の応援、10年を振りかえってと聞かれ涙、涙となってしまった。
2時間31分のタイムは、10年前の東京世界陸上(4位)でマークした記録を上回っている。10年経って同じコースで記録を上回る走るをするところが、有森のマラソンである。
「何で、私たちが下位入賞なんですか。冗談じゃない。見てて欲しい。絶対に結果を出して見せる」
91年東京を取材した自分にとって忘れられないのは、有森と山下佐知子(現・第一生命監督)の反骨心だった。当時は、今では想像もつかないが、男子マラソンがすべての時代だった。女子には注目などまったく集まっていなかったこの大会前のパーティで、陸連幹部が「男子は金メダル、そしてメダルもう1個、女子は下位入賞を目指してもらいたい」と、何の気なしに壇上で挨拶をした。それを聞いた2人は、もちろん大人なので公式の場で露骨な態度など見せなかったが、後でこちらにそう言って憤慨した。
結果は、山下がビッグイベントでは人見絹江さん以来となる銀メダル、足首を負傷していた有森も、後半粘って4位と「上位」入賞を果たして、関係者を驚かせ、同時に唸らせた。結果的に2人の走りが、翌年のバルセロナでの有森銀メダル、山下4位、そしてアトランタ、シドニーと続く、日本女子マラソン黄金時代のまさに先鞭をつけた格好となる。
「もう10年なんですね。本当に早いです。有森さんはあの日から今日までずっと走り続けて来たんですからどのくらいがんばったか、わかるんです。本当によく走ったと思います」
スタートからレースを、合宿先のいわきで見守った山下監督は感慨深げに言った。常に結果を出すことだけが、女子マラソンの前進につながるという厳しい日々を2人は越えて、ランナーと指導者として、今も最大の理解者であり続ける。
91年の東京世界陸上を沿道で見て、マラソンを走ろうと思ったという坂下は9位に終わったが、「10年前はここで応援をしていたと思うと、応援されることが何か不思議だった」と話していた。91年に資生堂に入社した弘山晴美は、この日はラジオのゲスト出演を務め、全コースを走っている。勉氏によれば、「当時はマラソンうんぬんどころか、もうコロコロ太っていて、それどころじゃなかったですね」というほど、現在とは違うレベルの選手だった。
この大会のコースレコード保持者、今思えば、とんでもない記録(2時間22分12秒)で突っ走ったものだと感心するが、山口衛里(天満屋)は、現在故障と戦っている。レースは部屋のテレビで見ており、山口もまた、当時はダイエーで「コロコロ太った組」だったようだ。
女子マラソンをリードする選手たち誰もが、それぞれの感慨を込めていたのは、10年という月日の早さであり重さであり、彼らを画面に、レースにひきつけたのは、その10年すべてに、走り続けることだけで「答え」を出そうとした真のリーダーへの敬意だったと思う。
ハーフからは、ひざの故障での練習不足がたたってしまい、足も止まってしまった。「歯を食いしばる」とは土壇場で言う言葉だが、ハーフからずっと歯を食いしばり続けて、それでも31分、10位でまとめてきた走りの熟練度は、恐らく、トップランナーならば誰でも理解できたはずだ。
ハーフ1時間12分6秒は彼女のベストに近いタイムで、マラソンでは、記録と、それと同じように何を見せるのか、有森はそれを十分に教えて、とりあえず舞台は降りる。
「きっと笑いながら見てるんだと思いましたよ、ゴールしたら2人に笑われるんだろうな、ってね。でも、今の私なら100%以上の力は出したと思うんで。ええ、またゆっくり」
レース直後に、山下監督から携帯に連絡が入った。有森はそれまで号泣していたのが嘘のように、こちらに笑顔を見せて、携帯を持って、監督と弾んだ声で話していた。沿道の応援、仲間との再会となると泣き出すが、なぜか監督や私との会話になると笑い出してしまう。
こちらが「年甲斐もなくあんな無理してハーフで潰れて」というに決まっているだろうと、有森は笑っていた。確かに、監督とはレース中にも電話で「有森らしいよね」と笑った。
しかし、湿っぽくなりがちなこのレースでも笑えたのは、この10年が彼女と監督と女子マラソンにとってどれほど重要で、しかもどれほどきつく、2人がどれだけ練習で泣いていたのかを知っているからだ。体のどの部分としてまともな個所はないはずだ。休んで欲しい。体も、心も、しばらくは。

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