9月15日
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陸上
スーパー陸上2001ヨコハマ
男子ハンマー投げ、同400m障害、女子走り高跳びほか
(横浜国際総合競技場)
2001年シーズン最後の国際大会で、8月のエドモントン世界陸上(カナダ)で銀メダルを獲得したハンマー投げの室伏広治(ミズノ)が82メートル08を投げて、シドニー五輪、エドモントン両大会で金メダルを獲得していた王者・ジョルコフスキー(ポーランド)を押さえて優勝を果たした。室伏は今季、エドモントンで82メートル台を6度の試技中3度投げるなど、世界No.1の圧倒的な安定性を誇っており、この日も条件が悪い中で80メートル台を3回マーク。世界選手権でメダリストとなって一枚上の実力を見せた。
またエドモントンで銅メダルを獲得した為末 大(法大)は、世界選手権のメダリスト2人とともに今季最終戦に挑み、左足の付け根にわずかな痛みを感じたと慎重になったものの、48秒92で3位となった。このレースでは、為末の前の日本記録保持者で95年のエーテボリ世界陸上で、日本人のハードラーとしてはじめて決勝進出を果たした山崎一彦(岐阜ES事業団)が現役最後のレースを走り、記録は51秒65で最下位ながら、為末へ日本第一人者へのリレーを行なった形となった。
女子走り高跳びでは、ミズノの今井美希が1メートル96の日本新記録をマークし、エドモントンの予選落ちの屈辱を果たした。今井は1メートル94を持ちながらも、エドモントンでは予選落ちし、今大会に今季の雪辱をかけていた。日本記録は更新は1987年、佐藤恵がマークして(1メートル95)以来14年ぶりの快挙となった。
男子400メートル43秒18の世界記録保持者・マイケル・ジョンソン(米国)はこのレースを最後に競技生活を終えることを表明している。スウェーデンリレー(100、200、300、400メートルと走る)アンカーを務めて、1分47秒93でファイナルレースを終えた。
ジョルコフスキーを破って優勝した室伏「大会運営は時間を気にするばかりで安全面での確保がされていなかったことを残念に思う(練習の際、室伏の投擲が走り幅跳びの砂場のほうに飛んでしまい、ジョルコフスキーの2投目も、トラックとの境目に落ちてしまった。ともに、高さ数十センチの防御ネットがなかったために、落下した後に危険となった。通常、ネットが張られていることと、ほかの種目と重ならないような配慮がされる)。みなさん、選手もこの試合を楽しみにしていたのですから。審判のみなさんはずっと試合時間を気にしているのは仕方ないですが、例えばゼッケンも日本語でコールしたり、ルールなどでも日本語で説明する。これはもっと工夫をしなければならないと思う。自分も何とか対応はしたが、力を出し切ったという感じではない。もっと記録も狙えたと思う。
今季は年間通じて力を出し切ったと思う。シドニーの後対策を考えてここまできた、気持ちの面でも変わったと思う。来季は欧州GPがあるので、それに集中したい」
「ナカタもイチローもいないけれど」
すでにトップレースには出ていなかった山崎が最後のレースを走るからといって、特に感傷的になることもないのだろう、ラストランも、花束をもらって儀礼的に、と誰もが考えていたはずだが、ミックスゾーンに引き上げてきた山崎は、なじみの記者たちの顔を見ると、涙を流した。
「思うと、競技者としての僕の夢は、ファイナル(決勝進出)でした。為末が、夢を目標に変えてくれた。ああ、これで役目は果たしたのかな、と心から思うことができました。楽しいことばかりでした」
169センチの為末、と身長の低さをメディアは強調するが、山崎もわずか2センチ上回るだけである。彼が「ハードルでファイナリスト」と言ったとき、誰もが無謀な夢だと思った。しかし、「自分で競技を突き詰めていくことは楽しかった。何度か緊張の糸が切れたことがあったが、それをつなげたのは、ドン底の苦しみを知ると分かる楽しさがあったから」と、ハードリング、肉体的ハンディを逆手に取る工夫、これらに取り組んだ。
山崎の2つの功績を指摘したい。
ひとつはハードルの技術を高めたこと。もうひとつは、世界、という舞台に若手と同年代の選手たちと風穴をあけたことである。
山崎は勝てなかった。大学時代は、苅部、斎藤に続く3番手で、万年2位どころではない。しかし、ここから単独で欧州を回るという苦労を、まさに買って出る。キャンセル待ちをレースでし、十分な資金もなく、自分のハードルだえを頼りに欧州を転戦した。
為末は山崎から夢を受け取り、現実の形に変え、切り開いた道を今整えようとしている。
この日、男子100メートルで2位となった朝原宣治(大阪ガス)は、山崎と為末の世代も、考え方もつなぐ重要なアスリートだ。伊東浩司らと、それこそ黒人以外がいない競技でビッグチャレンジを続けている。
為末は今、ドイツ語、英語もすでに転戦のキャリアの中で、競技力と同様に磨き続けた朝原らと行動を共にする。
「今季は、怪我で失いかけた自信や感覚、いわば頭と体の回路がつながった年になりました。アイディアが湧くんですね、休んでいても。まだまだ自分の可能性があると思ったから、今季は10レース以上、多分97年に続くほどのレースをこなしたんです」
朝原は、今季日本最高10秒02を持って国際イベントを終える。緊張感の高い欧州を転戦したことは、疲労ではなくてやはり楽しみのほうをよりもたらしたという。どん底になると、アスリートの防衛策として「アイディアが浮かぶ」、朝原はそんな風に表現する。
山崎はひとつ上だ。寂しいが、けれども、まだ自分にはできることがある、と静かに笑っていた。
プロの団体競技以上に、アマチュアの個人競技で欧州や国際舞台を日常の場とすることは難しい。資金的にも、もちろん陸上という競技でも、それはほぼ不可能に近いものだった。しかし、この日優勝した室伏、為末、朝原らは、世界に軸足を置く。語学や交渉を一人でこなして、勝負をものにする。
ナカタも、ノモもイチローもすばらしい。しかし、優勝したところで集まる報道人がわずかに20人ほどの彼らもまた、日本スポーツ界が誇る財産である。
「今井が日本新記録」
女子走り高跳びで、今井美希(ミズノ)が、日本新記録となる196cmを3回目の跳躍で成功し、佐藤恵が持っていた195センチを14年ぶりに更新した。
エドモントン世界陸上では、大会前の練習で「ミラクルな状態」を味わっていたにもかかわらず本番では185センチしか飛ぶことができずに予選落ちをしてしまった。今シーズン最後の国際大会となる今大会は、頑張ろうという肩に力の入ったものではなかった。
「記録の予感はありませんでした。でもアップの時に、自分は飛べる、このお客さんたちは自分の跳躍を見るために来たんだ、と自己暗示をかけていました」
義務感ではなく、自分をアピールしたいと思うようなこんな積極性が方の力を抜かせたのだろう。
1メートル90を2回目で成功した頃から、踏み切り前の最後の5歩にいい感触があった。そのイメージを頭に残しながら、196cmを越えたとき、「やっと大きなものを乗り越えて、嬉しさよりもため息をつくような感じでした」と振り返る。
記録以上の収穫は、この日のジャンプのように技術的に完璧ではなくても、「高く飛べる」という手ごたえと確信を覚えたことだった。お客さんは自分を見にきたんだ、と思ったような積極性、大胆さが、この日初めて実感したテクニック以外の「高跳び」である。
199センチは3回とも失敗に終わった。しかし今井がこの時挑んでいたのは初めての199センチというバーの物理的な高さであり、自分の心の中にあって、この日引き上げられた見えない「バー」でもあったのではないか。(文・松山仁)
「マイケル・ジョーダン!」
ジョンソンの400メートルの凄まじいばかりのスピードは、皮肉なことに彼が走らなくなってからのほうがより「実感できる」ものとなっている。400メートルを43秒という次元は、彼がいないレースがどこか気の抜けたものになることだけでも十分に理解できる。そして、ラストラン、と言われたこの日、トレーニングをしていなくても、その次元は変わらないのだと、誰もが納得したはずだ。
「幸せな競技人生だった。記録を更新し、誰もできない五輪のダブルタイトルも、多くのタイトルにも恵まれた。しかしもっとも大きな仕事は、可能性を追求しそれを見せたことだと思っている」
不思議なほどに感動のない、レース後のコメントだったが、ジョンソンは笑っていた。NBAのスーパースター、マイケル・ジョ−ダンが引退した際の会見も印象に残っているのは、「自分の一番の仕事は、ディフェンスがいかにバスケットボールを左右するか、その新しさに取り組んだこと」という、意外なコメントだった。ジョンソンの「可能性の追及」は当たり前で、しかし非凡なジョーダンのコメントと似ていたように聞こえた。
今後は、コメンテーターなどを行い、さらにビジネスでも準備があるという。
面白いことがあった。レース前の収集場で、選手の名前をゼッケンを確認する。日本の係員が間違えて、「マイケル・ジョーダン!」と叫んでしまった。もちろんジョンソンは無視していたが、まわりの選手はあまりのミスに憤慨していた。
もっとも、人間の限界に飛んだかのようなエア・ジョーダンはカムバックするというのだ。疾走するジョンソンも、アテネ五輪に復帰してくれないだろうか、そんな偶然は同じでもいいのではないか、ふと思った。

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