8月2日

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世界陸上開幕前日

 ミュンヘンの世界柔道では田村亮子選手の5連覇を取材し、31日夜中、カナダのアルバータ州、冬季オリンピックの行なわれたカルガリーから近いエドモントンに到着しました。大西洋を横断するイメージは、太平洋やシベリア大陸といった普段の空路に比べれば、何かはるかに楽チンな気がしてタカを括っていたんですが、どうして、どうして。
 ミュンヘンから経由地のトロントまでが8時間半、そこから3時間近い乗り継ぎ時間を過ごして西海岸のエドモントンへ移動したわけですが、ミュンヘンから行っても、行っても夜が来ないんですね。時間が元に戻ってしまう。時差を英語では「ジェットレグ」と言います。時差を感じたことはないのですが、単語の実感が伴いました。


「どうでもいいこと」

 田村選手の5連覇を現地で観られたことは、大変な幸運だったと思います。けれども5連覇自体ではなく、そこまでの5試合、約9時間の詳細を目撃できたことのほうがよりはるかに貴重な取材であったように感じています。

 このレポートはNumber(来週発売)に速報で書くことになっていて、何かひと工夫をしたいと思い、戦った選手のコメントを取るなどミックスゾーンでずっと取材してみることにしました。ミックスゾーンとは、選手と記者がミックス、つまり取材をできる場所を指し、柔道でもこうした取材場が設けられていました。もちろん本来、「ミックス」するのは試合の後であって、試合中には記者は記者席にいます。ですから試合が始まると、そこは選手の招集所でもあり、通路でもあり、実に慌しく人が出入りする場所にかわるのです。
 ミックスゾーンにはモニター用テレビが置いてありましたので、田村選手の試合の時だけは記者席に上がり、その前後、つまり彼女がこのミックスゾーンを通過していく様子を見ることにしました。彼女とは絶対に目を合わせないように、通路の一番奥に椅子を置いて、そこに座って1回戦から決勝まで、畳に立つ前、直後の姿を見ていたわけです。
 通路の奥には体操場があり、畳2つ分の広さがある練習場が確保されています。そこで選手は休んだり、マッサージを受けたり、簡単な体操をして出番を待つことになるんですが、その部屋を出ると、真正面に会場の入り口がライトに照らされて見え、まるで花道のように練習場から1本の道が続いている、そんな構造で通路が仕切られていました。ここで見たものは本当に印象的でした。

 右ひざを痛め、あれほど状況が悪くても、「風格」を失うことがなぜかありませんでした。畳の上ではチャンピオンですから当然ですが、同じ日に行われていたほかの階級を含めてミックスゾーンを通過していたどの選手にもまったくない、風格を保っていたことがとても不思議に思えましたね。
 風格の中身について考えました。
 例えば、スポーツ選手が履くサンダルを彼女も使っていますが、彼女は出入の際に必ずこれを脱ぎ、自分で揃えていました。脚が動かなくて、本当はそれどころではなかったはずです。
 招集場所ではみな慌てているものですが、彼女だけは落ち着いてしかも礼儀正しく招集の手続きを済ませるのです。一端胴衣を脱いだら、それを実に折り目正しくたたみ、手に巻いたテープも乱暴に取って丸めて投げるようなことは決してしません。あの日は、痛み止めの注射を打つ、打たないで周囲のほうがむしろパニックになっていたはずですが、彼女は全員の立場を立て、実にうまく対応したと思いました。5試合すべて、外から見ればどうでもいいようなことをきちん、きちんとこなす姿は、畳で見せた柔道と同じ説得力をいうものを放っていたように見えましたね。自分のリズムを作っていることはもちろんですが、勝負から思えば、一見どうでもいいようなことを粗忽にしない、どんなに自分がパニックに追い込まれていても人には対応するときには必ず「心」というものを込めている。これは、誰も真似ができないのではないかと、通路の向こうの彼女を見ながら考え続けました。

 さて、一流選手というのは、こういう人たちです。つまり「どうでもいいこと」を絶対におざなりにはしないのです。どうでもいいことにも常に神経を張り巡らし、それを淡々とこなせる、しかもパニックともいえるような状況の中でこそそれをやり抜いてこそ、結果が得られるのだと信じて疑わない人たちなのです。我ままといわれることもあるかもしれません。

 8月3日、世界陸上がエドモントンで始まります。
 2日、様々な記者会見が行われました。
 室伏広治選手(ミズノ)は、体重90キロ台という圧倒的肉体の不利を背負いながら、ハンマー投げの金メダルを狙います。会見では、恐らく息子以上に無口な前日本記録保持者の父重信さんが「同じ質問を繰り返されると、今は神経を集中しなければならないので」と、息子に代わって懸命にメディアに対応している姿は、「余裕」を感じさせるものがありました。
 普段通りやることがテーマだと親子は強調していました。普段通りとは、おそらくその8割で、技術の話をしているはずです。普段通りの技術は、一瞬でも気を緩めたりすると逃げてしまうとも重信氏はよく話しています。
 どうでもいいこと、だけど、とてつもなく大事なこと、これらを丁寧に丁寧に積み上げていった時にしか結果は出ないのですから。
 そういった緊迫感を、陸上競技はそのシンプルさゆえに非常によく現すのです。
 現場にいると、実に細かな、どうでもいいことが目につきます。こうしたことを発見していくのは至難の業ではありますが、できるだけ見逃さないよう約10日の競技を見たいと思います。
 日本時間4日、午前、男子マラソンで大会が始まります。
 なお、エドモントン3日午前に室伏選手が出場するハンマー投げの組み分けが発表された。今季(2001年)83メートル47の出場選手中最高記録をマークしている室伏選手は2組14番目の試技となる。



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