29日、世界選手選手権前人未踏の記録となる5連覇を果たした48キロ級、田村亮子(トヨタ)が、一夜明けて会見を行った。7月13日、稽古中に痛めた右ひざ(内側側副靭帯損傷、ないそくそくふくじんたいそんしょう)の痛みは、試合を開始する当初よりもさらに悪化し、30日はまったく動きの取れないほどになったが、表情には明るさと安堵の様子が漂っていた。
あらためて、世界選手権6連覇、今年の福岡国際柔道での12連覇を目標に上げて、「記録に挑戦し続けるために、新たに技の鍛錬もして行きたい」と早くも意欲をのぞかせた。
田村ら選手団は31日にドイツを出発し、8月1日、日本に到着。しばらくは膝の静養と疲労回復に努めていくことになっている。
田村一問一答
──一晩明けて、よく眠ることができましか?
田村 アンちゃん(78キロ級金メダルの阿武教子)と同じ部屋なんで、今朝7時くらいに起きて、2人で、イエーイやったね!と叫んでいました。しみじみ実感が湧いた。ぐっすり眠ることはできなくて……。痛みもあったし興奮もありましたから。注射の痛み止めの効力が切れて、今は痛いですねえ。冷やしたりはしているんですけれど。
──当初の診断よりも重いとわかったときにはどういう気持ちでしたか?
田村 私も知らなかったからですね、終わってから言われえて、エッ? という感じでした。まあ、普通の痛みじゃないな、と思いましたし、MRI検査をしたときに、先生が一瞬絶句したのを、あれ? という感じで見てはいました。ただ、この怪我は(症状とは別に)受け入れていたんですね。大きな試練を乗り越えてこその記録だということで。
──奇跡が起きたと思いますか。それとも考えていた通りだったと?
田村 ええ、奇跡も半分あったと思います。ただ、ここまで喜びも苦しいもいろんな人たちとの出会いがあって、一戦一戦私がやってきたことは間違いじゃない、とそういう気持ちが強くなってはいきました。奇跡という部分とそういう部分がうまく合わさった結果だと思います。
──今年はまた福岡がありますね
田村 記録更新のために前進して行きたい気持ちはあるし、みなさんに聞かれるからですね(笑)。次の目標は? と答えてしまうんですよ。でもそういうチャンスを頂いているんだなと思う。6連覇を達成したいですね。
──(恋人の)谷選手(オリックス)には連絡しましたか
田村 はい、試合が終わって向こうはもう夜中だったと思うんですが、待っていてくれたみたいで。やりました、と報告したら、足は大丈夫? と心配してくれていた。(テレビ見ていたのかなと聞かれて)応援してくれましたから。
──これからの目標は
田村 私との組み手を嫌う選手が物凄く増えているんですよね。だからもっと低い姿勢から行くとか、裏投げををやるとか、もっとできると思うし、自分で自分の限界を決めてしまうともうそこで終わってしまいますから、もっと技のバリエーションを増やしたいと今は思ってます。昨日は(金は取ったけれど)自分自身の動きが悪くて納得できない部分もありました。もっとバリエーションを増やすことを考えたい。
トップアスリートには、技術、体力、精神力とよく言われる3つの能力のほかに、もうひとつ、実は隠された、しかし重要な才能が必要だと考えられている。「閾値(いきち)」という概念だ。「痛みの閾値」と表現する。
これは、もし怪我を負った場合でも、その選手がどこまで痛みに耐え得るか、あるいは絶えられないか、こうした限界地点についてのもので、整形外科医ならば、全治何か月の診断を下した後、次に考えるのが「痛みの閾値」だという。
全治3か月でも、閾値が高ければ低い選手よりもはるかに早く怪我が治癒する。反対に全治10日でも1ケ月先に復帰がずれ込むことはよくあるからだ。
怪我に強い、といった曖昧な表現は、「痛みへの閾値が高い」と言い換えられるわけだ。
皮肉なことに、田村は初めて膝の重傷を負ったことで、隠されていたその「閾値」の高さを実証したのではないか。どうしようもなく痛いが、そこからさらに限界を引き上げることができる、そういう能力を体が持っていたことを、本人も試合で実感したはずだ。こういった能力を持った選手は、野球界にも、サッカー界にも、いる。いるが、極めて少ない。
実は重傷だった、と言っても、これは29日、1回戦に挑む「前」の話であって、はるかに重要なのは、戦い始めた「後」1回戦ごとに、症状が間違いなく悪化し続けていたことだろう。
「きょうは寝返りも打てないくらい痛いですねえ、まあこれでよく最後までやったと思います。でも、痛くても、それを上回る何かがずっと心の中にあって……。それが最後まで切れなかったことが勝てた理由だったと思う」
会見を終えた田村は、わずか50メートルほどのロビーをゆっくり、ゆっくり歩いた。漂っていたのは悲壮感ではなくて、貫禄のほうだった。