学名のススメ(2)-3

ふじもり@えりー


分類という行為
さて、これまで示してきた学名関数、名義関数という道具を使って種を分類をするということをもう少し詳しく説明してみよう。

分類学者の目の前には、いま、何らかの方法で入手した虫のN個の標本Sn (n=1 to N)がある。
これはたった1個体(N=1)のこともあれば、各地から集めた多数の標本(N, N not 1)のこともあるだろう。
そこで彼が行うことは、標本Snの形質を細かく比較・観察し、この中にこれまで文献上知られている、あるいは手元に並べた類似の標本とは何か違いがあるかどうかを調べるのである。
すると、これらの標本群のうちm個の標本Sm (m<=N)はその他のものと明瞭に区別できるということに気づく。
Smは自然界から得られたもので、当然のことながら得られた場所も標本ラベルから分かっている。

少なくともその地方においてSmと同じ形質を持った虫がある生物ユニット(種、または亜種)Aとして生息しているだろうという仮説

が立てられる。
これが人(分類学者)の分類学的研究と考察によって認識された分類学的タクソンである。

さて、このような分類学的研究、考察の結果、彼はこのSmという特異な標本群のなかでも特徴的な個体Txを選ぶ。
そして、このTxに代表される特徴Fxというものを記述し、他のとの分別点を明らかにする論文を書くことになる。
その形態的特徴を書くときには厳密にそして正確に行わなければならない。
思い出して欲しい。
彼の仮説である分類学的タクソンに名前をつけることはできないのである。
どうしたらよいのだろうか?
彼にできることは、ただ一つ、彼の分類学的研究・考察の結果選び出された他とは違う特徴をもった虫Txを選ぶこと。
そして、命名規約にしたがって、学名を与えることである。
このようにして選ばれた標本Txのことを担名タイプという。
学名関数は担名タイプを変数としてもち、特定の担名タイプによってその値が決まるのであったから

Nx = n(Tx)

である。
つまり、命名規約は学名関数n(t)、つまりどのようにして学名を決めたらよいか、というルールを規定しているのである。
Nxは二語名でなければならなくて、属名の頭文字は大文字とか、唯一無二でなければならないとか、表記するときには他の語と区別できるようにしろとか、亜種のときは三語名にしろとか、ようするに第一回で述べたことである。

そして、担名タイプt = Tx、そしてそれに伴う学名n = Nx、これらの値を名義タクソン関数f(n,t)に入れることで、名義タクソン関数は一つの固定した値、すなわち他とは違う形質Fxを持つことになる。それは

f(Nx, Tx) = f(n(Tx), Tx) = Fx

と表すことができる。
くどいようだが、この名義タクソン関数の意味するところは、

選ばれた担名タイプTxは学名関数nによって定められた固有のNxという学名をもち、この名義タクソン関数はFxという固有の形質を持つ

ということである。
Fxという固有な特徴は固有な担名タイプTxにのみ依存していることが上の関係式から分かるだろう。
すなわち、分類学では担名タイプこそがもっとも重要な要素であり、これがなくては学名も決まらなければ、分類もできないのである。

ここで最初に戻るのであるが、 名義タクソンは何のために設立したかというと、それは彼の最初の仮説である

他とは違うFxという固有の形質を持つAという分類学的タクソンが存在する

ことをいうためであり、

Fxという特徴をもった個体群の集合体のことを、今後便宜上Nxと呼びましょう

という仮説の提唱を行うのである。
そして、この分類学者は、あるいは別の分類学者はこの仮説を一度認めた上で、この仮説が妥当であるかどうか、すなわちこのような分類学的タクソンが妥当であるかどうかを検証する作業、すなわちこの頁の一番最初に戻るわけである。

分類学的タクソンと名義タクソンの結びつきは、あくまで人(分類学者)によるFxという特徴抽出であるから、その解釈は人によって異なる可能性がある。

ある人はその特徴を差があるとは認めないかもしれないし、ある人は差があると認めるかもしれない。

たとえば、色が違うという特徴は見た目でいっても物理学的に言っても差があることは間違いないが、生物の色というものが種を規定するほどの差ではないと一般には考えられているため、オオセンチコガネは色が違っても(ルリであろうが、ミドリであろうが、アカであろうが)オオセンチコガネ1種であると考えられている。

また、オサムシのように外見上はある地方で取れたオサムシと別の地方で取れたオサムシは容易に区別できるような特徴的差異をもっていないが、♂の交尾器(ゲニタリア)の形質はまるで異なるものを持っている場合がある。
見た目で区別できなくても、ゲニの形質は種の分別として分類上十分な役割を果たしている。
以前ヒラタクワガタの地域(離島)亜種のゲニタリアの違いについて記事を書いた(Project G)が、外見のみならず交尾器は分類上重要な分別点となりうるのである。

さらに、最近の分子生物学の進歩は生物個体が持つ遺伝子(生物の設計図)の違いを見出し、外見上は容易に区別できない種を分別しようとあるいは一見すると別のタクソンのように見える虫が実は遺伝的には区別できない同一の種であるということが分かったりする。
あるいは、異なる種群の間の類縁関係(どのくらい近いか遠いかという距離)がわかったりする。

もう少し話を元に戻すと、この分類学的タクソンは自然界に厳然と存在する動物学的タクソンに一致するかどうかは分からない。
一致することが”正しい”というべきかどうかも分からないが、正しかろうが正しくなかろうがそんなことは分類学上の問題にはならない。
もちろん分類学が目指すところはこの分類学的タクソンと動物学的タクソンの完全なる一致であろう。
研究が進むにつれて、次第に人間の認識する分類学的タクソンは動物学的タクソンに近づいていくのだろうなあということは予想できる。
もし、地球上のありとあらゆる生物個体を認識することができ、それらすべてに名前がついて、それらの類縁関係がわかったときに学問体系としての分類学はその役割を終えるというわけである。
永遠にそんなことはありえないと思うが・・・。

分類は人間が行うものであり、形質の差を見出すのも人間である。
上の例のように、形質の差をどのようにして差があると認めるかはもちろん長い歴史によって蓄積された仮説とその検証作業の繰り返しであるから、まっとうな分類学者はある共通認識をもっているはずである。
しかし、すべての分類学者が同じ考えをしているわけではないし、その時代の分析技術(顕微鏡技術、採集技術など)や得られている情報量によってその認識は変わりうる。
当然のことながら、上で述べた名義タクソンの設立の状況を考えれば、分類学者によっては用いる学名は変わりうる。

わしはこう思う!いやわしはこう思う!という仮説が時代を超えて、あるいは同時代で対立することになる。
だから、学名は決して決定的なものではない。
その時代における分類学者の認識によっていつでも変わりうる、あくまで仮説を主張するための道具にすぎない。
したがって、ある虫には正しい名前があるか?といわれると、本当のところは我輩はムシである、名前はまだ無い。

これが私の結論である。
 

さあ、あなたはどう思いますか?

 


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